備忘録的な紐付け知識学 ~三日坊主頑張る編~ しょの6
今村翔吾先生の ぼろ鳶組シリーズ① 「火喰鳥」19ページから引用させていただきますと、
1857年(明暦3年)の明暦の大火以前は、武士・町人各々が自家のみを守っており、大火の場合は、火事が起こった際に、幕府が奉書を各大名に届け、大名はそこから支度をして消火活動に出向いていたようです。なので、「奉書火消」と呼ばれていました。
しかし、明暦の大火で、それでは遅いと言う事となり、幕府は常設の「大名火消」を置きました。
大名火消は 時代が下がると、「八丁火消」「所々火消」「方角火消」と別れていきます。
八丁火消は 自家の大名屋敷から八丁四方のみを守る武家の私設消防隊です。一丁は約109メートルです。だから八丁だと訳872メートルです。
所々火消は 要所要所を張り付きで守る消防隊で、江戸城各所や増上寺、浅草御蔵、紅葉山等を守っていました。譜代の藩や外様の大藩が役を担っていました。
方角火消は 大手組、桜田組に分けられ、10万石以上の大名がそれぞれ四家ずつ(計八家)所属していました。
江戸城の担当門を守護して、その方角より攻め寄せる家事を伏せるのが役目でした。
武家の消防組織は、大名火消の他に「定火消と言う組織もあります。
4千石以上の旗本が選抜されました。与力6騎、同心30名が付与されて一組で、計15組存在しましたが、予算の都合上、明和の頃には、10組まで削減しました。
ここまでが、武家の消防組織です。
遅れて、町人で構成された「町火消」が現れます。
いろは組と呼ばれ、いろは47文字と〝ん〟のうち、語呂が悪い〝へ〟〝ら〟〝ひ〟〝ん〟を抜いて、その代わりに〝百〟〝千〟〝万〟〝本〟の4組を入れて全48組から成りました。
最も勢いのある火消集団でした。
人数も武家の火消より圧倒的に多く、江戸は俺たちが守ってるんだと言う自負、江戸っ子気質も相まって、侍を侍とも思わない横柄な態度だったそうです。
面白いですね。すごく物語が生まれそう。
江戸時代の消火は破壊消火で、周囲の家屋を破壊して延焼を食い止める消火方法だったそうです。
火元の間近で、鳶口や刺股や鋸などを使い建築物を破壊する。火元の屋根の上では、纏衆が纏を持って振るう。かなり、危険な仕事でした。
江戸の火事は小火も含めると、年間二千件以上!
荒くれ じゃなきゃできなかったんじゃないでしょうか。
命懸けで火を消してくれる火消したちは江戸のヒーローだったのは間違いないでしょうね。