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Small World.(1) 連載小説

 7月18日。
 空調が効いた教室。
 5限目。数学。その日のわたしは色々調子が悪かった。冷房は故障で切れているし、数学の教師は特進クラスなのに宿題をやらない一部の生徒(わたしを含む)に対してブチギレているし、何もかも最悪だった。
「言った宿題をやってこないとか舐めてるでしょぉお?そんなんで受験受かると思ってんのっ!」
 甲高い早口な声はただただ鼓膜を不愉快に振動させた。
「反省して下さい。反省!改心シテ!」
 わたしは理の通ったものが好きだ。
 そしてイタズラに感情的なものが苦手だ。確かにわたしは宿題を出していない。そして、特進クラス最下位を常にキープしている。だが、人を殺したわけでも、他人に迷惑をかけたわけでもない。
 まだ教師は吠えている。
「こんなんだからダメなんですヨ。人生において負け癖が付きますよ、そんなんだと!大学受験で勝てないような人が就職も負けるんですヨ!」
 不快感が内容を無視していても伝播してくる。話している内容は頭に入ってこなくても、感情は空気の振動を通して鼓膜を揺らす。胸の辺りがざわざわする。いやこのムカムカは……
 ゲロ吐きそう。
 そんなわけで、わたしは一刻も早く教室を出たかった。まだ教師は吠えている。もう何言ってるかさえ混乱してわからない。あ〜、なんか口の中が酸っぱい。これ、ヤバいな。授業時間はあと30分。だけど、とても我慢できそうにない。腹の中はギュルギュルと締め付けるような痛みを感じる。どうやら時間はあまりないようだった。
 教師から見えないように手元でHandlerを起動し、コードを打ち込む。いまから長々としたコードを書くわけにもいかないから、以前作っていたコードに再利用してコードを書く。嘔吐寸前のぼやけた意識を𠮟咤してなんとかこの学校のサーバーのポートを開き、侵入する。そしてこのクラスのディスプレイへと自製のプログラムを流し込む。よし、これで行けるはず。
 人差し指を弾くようにしてenterのコマンドを打つ。
 同時に教室のディスプレイが数列で埋まる。
「なに、壊れたの?」
 行き場の失った感情をぶつけるように、バンバンとディスプレイを叩いている。ざわめきが教室を支配する。わたしは口の中の酸っぱい感じを抑えるのに必死だった。
 よし、今のうちにトイレに行くしかない!背を向けている教師を尻目にこっそりと廊下へと出る。途中クラスメイトに「お前今いなくなんのかよ」みたいなギョッっとした顔をされたような気がするが、背に腹は代えられぬ。勢いよく女子トイレへ行き個室に入ると、屈みこんでげーげーと吐く。ほとんどが胃液だった。今朝食べたのっておにぎり一個だけだったから、ほとんど消化されていたみたいだ。わたしは口の端について胃液とよだれの混じった何かを手で拭い、個室から出る。洗面台で勢いよく水を出して手を洗うと胃液混じりだったからか、ヌルヌルとした感覚が不快だった。手を洗いながらさっきの暗号についてなんとなく考える。
 あの暗号を特にはある程度の根気の強さに加えて、頻度分析の知識が必要になる。けれどスクランブルの具合も、雑だし正直言って手抜きも甚だしい。だから、玄人からしたらこんなもの暗号と呼べる代物ですらないのかもしれない。まあでも、数学教師の気をひくためのブラフだ。解くことを期待したわけじゃない。トイレで吐くという目的は達成したし、いいだろう。そう無理やり自分を納得させる。
 鏡に映った自分を眺める。鏡の中には目の下にくまのある不健康そうなチビな女がいた。
 何をやっているんだろう。
 学校では浮きまくりのわたしはいわゆるぼっちだ。クラスには友達はいない。当然のことながら彼氏もいない。趣味はプログラミングとPCいじりと散歩。なんてことない女子高生だ。そのはずなのだがぼっちだ。
 わたしのようなハッカーという特殊な属性を持った人間にはそもそも学校とOracleというシステム自体がはまらないらしい。情報省のたかだかAI如きに人生全体を投げ出しているみんなの方が絶対におかしいはずなのに。
 首都直下地震以後の日本の秩序は、欧米系超巨大資本をバックボーンとした、情報省の開発した量子AI『Oracle』によって運営されていた。
 Oracle登場以後、人々は生き方のレコメンデーションに従って生きるということがスタンダードな価値観になりつつある。どの中学校、高校、大学に行くか。どこに就職するのか。誰と結婚するのか。どこで死ぬべきか。20年前の人が聞いたら、鼻で笑うような状況が現代だ。だが、正直言ってその冗談よりも今は色々ひどい。
 もちろん、日本は自由民主主義国家であるという建前で運営されているから、Oracleのレコメンドに従うのかどうかは本人の自由意志に委ねられている。それは小学校からの教育でみっちり叩き込まれている。
「みんなの意見を尊重しましょう!」
「自己決定をする人のことを馬鹿にしてはいけません!」
 小学校の時デブの化粧まみれの女教師が叫ぶように言ったを覚えている。そう。自己決定、自由意志、大いに素晴らしい。万歳!
 ただしリスクを取る時は自己責任で。
 基本的にOracleにとって都合の悪いことはリスク管理の甘さということで個人の責となる。レコメンドに乗らないお前が悪いというわけだ。
 そしてOracleのレコメンドはある程度は正確であるというのが大衆の間で広まるにつれ、大衆の思考はAIに従うという屈辱から『リスクのないベストな意思決定』という言葉の安楽さへと簡単に傾いた。
 じゃあわたしはどうか?
 橘真はどう考えているのか?
 もちろんわたしは将来の道筋を好き勝手に口出ししてくるOracleが過干渉な母親と同列にしていいくらい大嫌いだった。
 人の人生に口出しする輩なんざクソくらえ。fucking 数学教師。fucking AI。口の中は酸っぱかったが、誇りは守り通した。それだけでもグッジョブ。

 5限目の授業も終わり、帰る時に立ち寄ろうと楽しみに思っていた秋葉原のソフマップの座標データを確認しようとHandlerを起動した。
 このHandlerはわたしのなけなしのアルバイト代をぶち込んで買った最新型である。クラスメイトたちが付けているの第6世代機とはわけが違う。このHandlerの第7世代機のしかも高性能版のpro!
 立体投影技術は第6世代機の2倍で、画質がいい。投影技術も格段にアップしていて、半径2メートル四方であれば自在に投影可能である。そして何よりも特筆すべきは操作性能。手首の回転運動および、指のクリックを生体電流を利用したトラッキング性能は第7世代機のしかもproともなれば、サクサクできる。ゴーグル社の今までのちょこちょことした改良にはうんざりしていたが、今回の最新型Handlerのproは神改良と評価せざるを得ない。
 前に使っていた第6世代機とほとんど操作は同じであったから、慣れた手付きでマップアプリを開く。手首を軽くひねり、起動する。手首の周りに無数のアプリケーションが並ぶ、手首を捻って無数のアプリケーションからマップを選択する。高速でスクロールされていく中から目当てのアプリケーションを選ぶ。そうすると、立体投影によってちょうどわたしの目の前に20cm四方の量子ディスプレイが表示される。
 通知アイコンをふと見ると、家族からの連絡以外は滅多に赤く点灯することのない個人メッセージ当てに電子メールが届いていた。
 背筋が凍った。

 話があるから、放課後まで残っていて下さい。 椿狼夏

 送り主はわたしの後ろの席の女子、クラスメイトの椿狼夏だった。
 その後の授業は、まったく頭に入ってこなかった。まさか暗号を解いたのか。そして解いただけじゃなく、送り主も特定するとは。てかどうやって特定したんだ。グルグルと疑問符ばかりが頭をループする。今日は掃除当番じゃなかったから、彼女の連絡を無視する言い訳もない。
 早く適当な言い訳をメールで返事を返しておけば、このあとリアルで詰められるのを回避できるはずなのに。結局怖くて何もできなかった。
 わたしのバカー!
 そもそも絶望的なまでにクラスメイトと関わりのないから、椿狼夏についてほとんど全く知らない。
 部活動は陸上部。同じ陸上部のクラスメイトの町田稿と仲がいい。彼女以外と話しているところはあまり印象に残っていない。といっても、会話がなかったわけじゃないとは思う。ただ特段町田稿以外と仲が良い人がいないというだけで。あと確か陸上部はもう辞めていたはず。クラスの人が噂話をしていたのを聞いた覚えがある。
 それが一応同じクラスで3ヶ月を過ごして知ったこと。でも本人と会話したことは一度だってない。そもそもクラスメイトと話す機会すらわたしはあまりない。
 気が付くと授業は終わり、放課後になっていた。これはまずい。非常にまずい。どうすれば逃げられるだろうか。それを考えなければいけない。『今日は掃除当番』とでっちあげるか、『部活動で忙しい』と嘘をつくかのどちらにせよ、メッセを送るしかない。『やるしかない!』と思ったら
 背中に違和感。
「ヒャア!」変な声出た!恥ずかしい。
「あっ、驚かせてごめん」後ろから声が聞こえる。どうやら後ろからちょんちょん、と絶妙なタッチで背中を叩かれたらしい。
「話しがあるんだけどいい?」わたしのもにょもにょとした喋り方とは違う堂々とした通った声。
「は、はい……」
「ここじゃあ、あれだからさ。場所変えてもいい?」
 ついに体育館裏とかに呼び出されてわたしもボコられるのか。それは冗談として、まさかの呼び出し?すっかり混乱して固まってしまった。
「ちょっと長くなりそうだからさ……てかいい加減こっちみたら?」
 呆れたようにその人は言った。怒ってるのかな。怖い……。あらん限りの勇気を振り絞り、後ろを振り向く。
「やっと振り向いた」ホッとしたようにその人は言った。
 顔立ちはやはり整っていて、特に細長い眉は墨を含ませた筆で横に引いたように美しかった。近くで見ると鋭い印象を与える切れ目が印象的だった。瞳は貫くようにわたしを見つめている。睨みつけているようにも見える。怖い。
 間違いなく椿狼夏その人だった。
 人と目を合わせるのが得意じゃないから、つい逸らしてしまう。
「ここから15分くらい歩いたところにゆっくり話せるところがあるから、ついてきて」それ以上の説明もなしに、椿狼夏は言うと、颯爽と背を向けて歩き出した。
 わたしは呆然と眺める。これはついていっていいのだろうか。怪しい人についていっちゃいけないと小学生のとき教わったような。一向についてくる気配がないわたしに教室の扉まで来て気が付いたのか、振り向く。つかつかとわたしの前までやってくる。
「ついて来るの?それとも来ないの?」
 茫然と立っていた。恐怖とかそういうのがない混ぜるになっていた。
 自分の言った言葉にはっとした顔をすると、椿狼夏は言い直した。
「ごめんなさい。強引だった」と頭をわざわざ下げて謝った。周囲のクラスメイトからの視線を感じる。
「1時間程度で時間をそんなに取らせるつもりはないから。是非とも橘さんに聞きたいことがあるからさ。だからお願い」
再度頭を下げられる。生涯で初めて同級生に頭を下げられた。つむじが綺麗だった。このまま頭を下げらせ続けたら、わたしが鬼畜野郎だという噂が流れるに決まってる。わたしは承諾せざるを得なかった。
「わかり……ました」
「本当!?じゃあ私についてきて」むすっとした顔が一転パッと明るくなる。そんなことよりも、わたしは周囲の視線が気になって仕方がなかった。早くこの人目がつかない場所に行ってしまいたかった。
 椿狼夏に促されてわたしは歩き出す。彼女の一本にゴムで束ねられた一房の髪の毛が左右に揺れる様子を眺めながら後ろをついて行く。
 事態が全く飲み込めない。時刻は16:16分。放課後の学校は部活動やら、おしゃべりに花を咲かせる生徒たちで溢れ活気に満ちていた。そのまぶしさから目を背けるように、わたしはひたすら椿狼夏の左右に揺れるロングのポニーテールを眺めながら歩いた。上履きを脱ぎ、使い古した白いスニーカーに履き替える。校門出て少し歩いたところで初めて椿狼夏が口を開いた。
「橘さんって部活ってなんだっけ」
「いや、特には……」
「文化系の部活とか入ってなかった?」
 わたしのイメージってどうなっているのだろう。そうか。わたしは明らかに陰のものだから文化部だということでフォローを入れているのか。そう考えると納得できる。
「いや……」「そう……」
 気まずい沈黙が続く。話題、話題、話題……。そこで疑問に思っていたことを訊く。
「話っていうのは、今日の授業のことなんじゃ?」
「それは喫茶店で話すよ」それだけでは突き放しているように思ったのか付け加えるように言った。「ちょっと入り組んだ話でね」少し困ってるように見えるのは気のせいだろうか。そこからは会話は続かなかった。
 喫茶店に行くのか。あんまりお洒落すぎると、わたしみたいな奴は浮いてしまうんじゃないかな。不安になってくる。学校から15分ほど歩いていて突然椿狼夏が止まった。考え事に気を取られていて周りが見えなくなっていたが、周囲を見回すと若者向けの古着屋が立ち並ぶ通りだった。
 「ここ」狼夏は指を指した。そこは1階が古着屋さん、2階が喫茶店になっているところだった。
 1階の古着屋は若者向けの明るい色どりのTシャツやジーンズを売っていた。古着屋の横に置いてある置き看板によれば、レンガ造りの階段を上った先に目標の喫茶店があるようだった。ひょえ~!わたしには縁のない世界すぎる!椿狼夏についていって階段を登る。そして彼女のは重厚な木製のドアをドアノブを握り、躊躇なく開けた。ここまで慣れているのを見ると、この店の常連なのかもしれない。カランコロンとベルのなる音が店内に響く。
「いらっしゃいませ」店主は60代くらい。ぱっと見の感じの良さにホッとした。店員さんが若くてオシャレすぎても気後れしちゃうんだよ。わたしは。
 店内には本を読んでいる初老の婦人がボックス席の反対側にいるだけで、それ以外はいなかった。全体的な内装は棗色の木材で統一されていてシックで落ち着く感じ。歩いているとミシミシという木材特有の軋む感覚をスニーカの足裏からも感じる。それがなんだか心地よかった。
 ボックス席に案内される。ボックス席には窓がついていて、そこから外の景色が見える。横並びに座る訳にもいかないから、自然と対面する形で座る。真正面はちょっと怖いから、荷物をおろすと斜向かいになるように座る。それを見計らったかのように店主がやってきた。椿狼夏はアイスコーヒーを、わたしはアイスココアを頼んだ。注文が終わると、店主は店の奥へと消えていく。
 注文の間も不機嫌なのか睨め付けるように椿狼夏は外を見つめていた。何を言われるのだろう。不安になる。
「橘さんって結構大胆な人なんだね」
 大胆?全く予期していない言葉だった。
「あんなに派手に教師に対して反旗を翻すなんてさ。目立つこととか嫌いなタイプのなのかと思ってたんだけど」
 『反旗を翻す』だなんて大袈裟だなあ。だが少なくとも他の人にはわたしの行動は大胆に映ったらしい。ただの吐きそうになってた陰キャなんだけどな。少なくともさっきの態度は、別に不機嫌でなかったらしい。ちょっと安心。
 わたしはずっと疑問に思っていたことを聞く。
「そもそもどうしてあの暗号の送り主がわたしってわかったんですか。あの暗号を解いたんですか?」
「うん」あっさりとうなづいた。
「けどどうやって」
「どうやってに関しては、橘さんの方がよく知っているんじゃないかな。カエサルシフトを利用した単純なもの。特に鍵があるわけでもない。根気とやる気があれば簡単」
「カエサルシフトであることはどうやってわかったんですか?」
「頻度分析を使ったの。分布をみたら完全に英語の頻度と一致したから、あとは頻度の多いeとかhに当たりをつけて単語を特定した。そのあとは芋蔓式」
 驚いた。椿狼夏の説明はあの暗号の解法を理解している言い方だった。だが、それはなぜ彼女が解けたのかという疑問に対する答えにはなっていない。そんなわたしの思考を読んだように言う。
「うん、疑問に思って当然だよね。私が暗号なんて知っているのか、それについてなんだけどね……」
 話が切り替わるタイミングを見計らったようにコーヒーとアイスココアが運ばれ来る。会話が途切れる。椿狼夏はまだ飲まないようだった。神妙な顔で固まっている。なんとなくわたしも飲まない方がいいような気がして、動かなかった。
「ごめん!全然飲んで!どう言う風に話したらいいかなって考えてたの」
 飲む。乾いた喉と日に当たって茹だった頭に、アイスココアの甘ったるさが脳まで染みわたる。しかしアイスコーヒーを頼むなんて大人だなあ。ふと椿狼夏に目を向けると涼しい顔でブラックのアイスコーヒーを飲んでいた。彼女の細くて白い喉が上下に動いているのが見える。歩いている時に後ろから見えるほっそりとしたうなじを思い出す。女のわたしでもドキッとした。半分くらいまでアイスココアを飲むとわたしはグラスを置いた。椿狼夏の言葉を待つ。
 彼女は飲みかけた手元のアイスコーヒーを見つめている。氷が溶けて、形が崩れ、他の氷と当たる。カランという音が静かな店内にやけに大きく響いたよな気がした。グラスの中の透明な塊に言葉を探しているのだろうか。
 話す内容が頭の中でまとまったのか顔を上げる。
「私がなんであの暗号が解けたのかっていうことなんだけど、これ見てくれる?」
言い終わると同時に、Handlerを操作し始めた。会話のために予め準備をしていたのか、よどみなくテキストを立体投影で表示する。
 無数の文字列。
 一見したところRSA暗号の文字列のように見える。流石にわたしの作った素人のカエサルシフト暗号とは比較にならない複雑さだ。
「これはだいたい半年前ぐらいに届いたメールなんだけど、件名はついてなくて、本文はこれだけ」
 送り主不明の暗号。確かに気になる。
「思いつく限りのものは試してみた感じですかね?」
「うん。兄の誕生日、私の誕生日、家族の誕生日、部屋の隅々まで探して手掛かりがないか探したし、本棚の本全部開いて、参考になりそうな走り書きとかを探したの。でもダメだった」
 思ったよりも徹底して洗い出したらしい。
「一応確認なんですが、これってRSA暗号なんじゃないですよね?」
「わたしもRSA暗号なんじゃないかと思ったけど、違ったみたい。ともかく3文字か4文字の集まりを一文字に変える換字式暗号かもしれないっていうのはわかったんだけど、それ以上はちょっと」
 そう謙遜していたが、わたしはこれまでの椿狼夏の用意周到っぷりとリサーチの深さは彼女のこの件に対する真剣さが伺えた。
「そういえば、これは誰から送られてきたんですか」
「ごめんね、それについて先に言うべきだった。これを送ってきたのは私の兄。椿恭介」
 へー兄妹仲いいんだなぁ。兄妹で暗号。兄妹仲良く暗号遊びか。なるほどなるほど?
 なんか変じゃない?
 わたしはようやく違和感に気がつく。
「兄は一年前に亡くなってるの」

 空気が凍った気がした。椿狼夏は真っ直ぐにわたしを見つめていた。わたしを試しているのだろうか。会話の途切れた店内では、キッチンからコポコポとお湯が沸くような音が聞こえる。
「いまから半年前にあったテロ事件のこと、覚えてる?」
 話の再開は予想外の点から始まった。
 わたしが思い出せる限りでは、合計死者9名負傷者65名。戦後では地下鉄サリン事件に次ぐと言われる大規模なテロ事件だった。テロリストは違法ダウンロードしたデータを使い、3Dプリンターで制作できる拳銃とプラスチック爆弾を製造したらしい。犯人は車内トイレで武装をしていた。中央線の新宿四谷間乗り降りドアが閉まり電車が動き始めるとトイレのドアを開け、銃撃を開始した。
 それは僅か16:10~16:20の間の出来事だった。テロリストは老若男女構わず拳銃で撃ち抜いた挙句、それを阻止しようとした勇気ある男性達と駅員達に覆いかぶさるように拘束された。
 そしてテロリストはそのの拘束ごと背中に背負っていたプラスチック爆弾で吹き飛ばした。肉片は飛び散り、車内の壁という壁にべっとりとこびりつき、現場は凄惨を極まったと聞く。わたしも怖いもの見たさで、あるネット掲示板に挙げられた無修正のその動画を(おそらく周辺住人かネット報道が、ドローンで空撮したものだと思う)見てしまったことがある。カメラは緊急停車した電車を100mぐらい遠くから撮影していた。車内では、正面の乗客に気を取られていた犯人を後ろからタックルするかのように拘束しにかかった人がいた。そしてそれに続くように駅員達が刺股やらなんやらで取り囲む。
 閃光。
 窓ガラスは割れ、煙が収まるころにはかつて人間だったもののパーツが見えた。あまりにも凄惨すぎてわたしはそこで見るのをやめたことを覚えている。
 気になるのは動機だが、肝心のそれは犯人が爆発四散したのだから聞きようはなかった。聞くところによると、テロリストは非正規雇用の男性で低所得者であったことから、周囲への恨みつらみを募らせたローンウルフ型テロリストなのではないかと言われている。
 そして老若男女構わず撃ち殺せたのか、躊躇いの念がなかったのかという点がメディアで取り沙汰され大きく問題になった。テロリストは今やコミュニケーションに欠かせなくなったスマートグラスのソフトウェアを利用して、周囲の人間をシューティングゲームのアバターにしていたらしい。そのために罪悪感を覚えず犯行を犯したという。
 概略に関する認識をまとめ椿狼夏と擦り合わせるのは難しいことではなかった。半年前の出来事だったのだし、なによりショッキングな出来事だったから。
 彼女は理路整然と、担々と事件の概略と関連した情報を澱みなく喋った。そして最後に言った。
「私の兄はそのテロの被害者の一人なの」

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