【小説】見覚えのない写真 3.卵焼きタイムパラドックスと、箱の来し方
テーブルの北東に、冷めた紅茶が一センチ残ったマグカップがある。反対の西側には、エアコンの効いた室内には必要のない梅干し入り塩タブレットが散乱している。
都心環状線はまん丸くはなく、皇居は小野が思っていたよりもずっとでかく、ジャンクションはこんがらがって見えるものの、実際にはきれいに整頓して高くそびえながら、鉄の塊をのったりと運ばせている。それにしても、何百回と地図を見ているのに、いまだに中心部の位置関係すら覚えられないでいる。
小野は散らかった自分のデスクを首都高に見立てて、指を彷徨わせた。
竹橋ジャンクションで消しゴムが横転しています。この事故の影響で神田橋ジャンクションまで五センチメートル の渋滞です。小野の人差し指が、江戸橋ジャンクションから上野方面に向かっていく。
ゆうべは遅くまでネットにつながって、地図を歩いていた。そこはいつでも明るくて、ずっと瞬間を保っている。高架下を歩く人たち、動かない街路樹の葉、スライドしていく車。一度も行ったことのない町がえんえんと現れ続けた。
小野は佐伯さんたちと行く予定のドライブのルートや、高速料金やガソリン代、休憩で寄る場所と時間配分のことを考えながら、高速道路や橋やどこかの地下を歩いた。
ドライブインでは焼きそばを食べるだろうな。そして、吸わない煙草を吸いたくなるのだ。煙草を買ってライターを買い忘れ、結局吸わずに帰って、家に着く前に煙草はどこかに置き忘れてくる。
「小野さんのデスクは相変わらずだなあ」
昼休みに行こうとしていたら、通りがかった課長が小野の散らかった机を覗き込んで呆れ声を出した。
「天才ぽくないですか」
「ぜんぜんぽくない」
「すみません、片付けます」
「別にいいけどね」
これサンキューと、課長が置いていった鉛筆削りが箱崎ジャンクションの真上にのしかかった。
「小野さんのデスクは相変わらずだなあ」
昼休みに行こうとしていたら、通りがかった課長が小野の散らかった机を覗き込んで呆れ声を出した。
「天才ぽくないですか」
「ぜんぜんぽくない」
「すみません、片付けます」
「別にいいけどね」
これサンキューと、課長が置いていった鉛筆削りが箱崎ジャンクションの真上にのしかかった。
カレーうどんを三分で食べ終えてしまった小野は、向かいで弁当を食べている佐伯さんから視線をそらすため、食堂の厨房でフライパンを振っている男の人を見た。佐伯さんが、引っ越しはちゃんと片付いたのかと、また聞いてきた。
「だいたい終わりましたよ。季節物はそのまま収納しちゃいましたけど」
佐伯さんは弁当箱を指さすと、
「それはよかった。卵焼きひとつ食べる?」と言った。
「いいんですか?前に頼んだときはくれなかったのに」
「かわりにブロッコリーをあげたでしょ。今日の卵焼きは、卵三個でつくったからいいの」
「いつもはいくつで作ってるんですか?」
「二個。卵が一個しかないときは、出汁でかさ増しして焼いてる」
「それがなんで今日は三個なんですか?」
「あたらしいパックから卵を移し替えてたら、手元が狂って取り落としたの。といっても、キッチンのシンクの上で、ひびが入っただけだから使えるでしょ」
「余裕で使えますね」
「ちなみに冷蔵庫の卵ポケットにはまだ二つ、前回注文分の卵が残っていたんだけど」
「注文?」
「あ、生協のこと。卵ポケットに前回生協で注文した卵がまだ二つ残ってたんだけど、今回注文分の卵を空いたポケットに入れようとしたときに、落としちゃったんだよね」
「前回の卵、残ってたんですか?」
「うん。今週は弁当作るの二回さぼったから。今日の卵焼きはひび入のひとつと、前回のひとつを使ったんだけど、賞味期限はまだ先だから大丈夫」
「過ぎてても平気ですよ」
弁当箱の蓋に乗せられた卵焼きを、小野は指で摘んで口に入れた。
「卵がひとつ入れ替わったとき、時間も入れ替わったって思ったんだよね」
佐伯さんが、甘じょっぱい味の卵焼きを小野が飲み込むのを待って言った。
「卵的タイムパラドックスですか」
「パラドックス?ああ、そうかな」
小野は、なぜか昨日の写真のことを思い出した。
「どうした?」
「いや、引っ越しの荷物のことで、ちょっと気になることがあって」
「さては、押し入れに箱ごとぶちこんだだけか」
「違いますよー。いや、まあ似たようなもんですけど、ひとつよくわからない箱があったんですよね」
小野は指示書きのないダンボールをひとつ発見したこと、中に入っていたのはどの家にもありそうな備品だったが、その荷物に見覚えがなく、どこかの町の写真がフォトフレームがおさめられいたことを、佐伯さんに話した。
「町って、どこの町?」
「それが、わかんないんですよ」
「そもそも、なんか見慣れない箱があるなって思わなかったの?」
「それが、ぜんぶ同じ引越屋さんの同じサイズのやつだったんで気づかなくて」
「ぜんぶ同じって?」
「サービスでもらったぶんとあわせて、引越屋から新しいのを買ったんで」
「それ、めっちゃ高くついたんじゃない?」
「急いでいたんで、空き箱を集める時間もなくて」
「あー、確か更新前に間に合わせようと思ったんだっけ?」
小野は更新の日付を見て真っ青になったときのことを思い出しながら、頷いた。
「そういうのは、もっと前に申し込んでおかないと駄目だな」
弁当箱を巾着袋に入れながら、佐伯さんは何かを思いついたような顔になった。
「その日は、引っ越しが予定の時間より遅くなったって言ってなかった?」
「よく覚えてますね」
トラックが来たのは約束の二時間遅れで、荷物を運び入れて引越し先の部屋に下ろし終えたころには、外は真っ暗になっていた。そのうえ何かのトラブルがあったようで部屋の電気が通じず、スマホの明かりでコンビニ弁当を食べて早々に寝るしかなかった。
「ダンボールは引越屋のもので、大きさもほかと一緒だったんだよね。しかも、中に入っていたのはどこの家にでもありそうな、備品みたいなものばかりだった、と」
「そうです」
「業者さんが小野さんの前の人の荷物を出し忘れて、混入させてしまったってことはないかな?」
一瞬納得しそうになったが、小野はすぐにそれが間違いであることに気がついた。
「それなら、とっくにその人から業者に電話が入って、私に連絡があるはずですよ」
引っ越してから、すでにひと月は経っているのだ。
「気がついてないのかもよ?小野さんだって、昨日ようやく残りのダンボールを開けたんでしょ」
「それもそうですけど…」
小野が考えていると、佐伯さんは別の角度から話しだした。
「引越業者って、ごみ処理のサービスとかもしてくれるよね」
「ああ、ありますね。私もいくらか捨ててもらいました」
「その箱は、前に転居した人から捨てておいてくれと頼まれたものだったとか」
食堂の机に身を乗り出すようにして、佐伯さんがどうよこの仮説と言ったので、なるほど、と答えそうになってから箱の様子を思い出した。
「やっぱり変ですよ」
「なんでよ?」
佐伯さんが妙に高い声を出したせいか、後ろのテーブルに座っていた三人の女の人たちが、ちらっとこっちを見た。挨拶くらいはしたことがあるが、課が違うから名前は知らない。
「だって箱のガムテープはものすごくきっちり貼ってあったんですよ。捨てるんなら、もっと適当に貼ると思うし」
「業者の人に見られたくなかったのかもよ」
「割り箸と紙コップをですか?捨てるにしても、分別とかがあるから引越屋さんだって中は開けるんじゃないかな。あと、写真のこともあるから」
「写真?」
「写真を捨てるなら、自分でゴミ袋に入れると思うんですよ。額に入れたまま引っ越し屋にまかせるっていうのはちょっと」
「それもそうか…」
写真がなければ、なんとも思わなかったんですけどねと言いながら小野は立ち上がり、カウンターにおいてあるポットから無料のほうじ茶を二杯ついで一杯を佐伯さんの前に置いた。家だとコーヒーばっかりなんだけど、会社だとこればっか飲んでるよ、給湯室のもこれだしさと言いながら、佐伯さんはほうじ茶をすする。
「小野さんって、前に住んでいたアパートは実家の近くだったよね」
「そうです、やっぱりよく覚えてますね」
「引越屋さんは最短ルートで動けるようにするはずだから、箱の人と小野さんは、引っ越し前の区域が近かったんじゃないかな」
小野もお茶をすすりながら、首を傾げた。
「もしそうなら、二人に共通する町なのかも知れないよ?」
「佐伯さん、それは違いますよ」
「なんで?」
「仮にその人と私の引越し前の家が近かったとしても、荷物が混入したのは、その人の転居先で運び出すときのトラブルですよ」
それに、いくら時間が押していたといっても、引越屋がそんな間違えするとは思えない。小野は新しく住むアパートの前に止まっていたトラックのトランクルームが、がらんとした空洞を見せていたことを思い出した。
「小野さん今度、その写真もってきてよ」
「いやいや」
「あ、小野さんもしかしてちょっと怖いんじゃない?よくよく見たら、怪しい人影が写ってたりして…」
テーブルから身を乗り出して小野の顔を覗き込んできた佐伯さんの目の中に、小さな黒子が見える。
「そんなこと言うと、明日から毎日卵焼きもらいますよ」」
それはだめだな野菜ならいいけどと言いながら、佐伯さんはまたほうじ茶をすする。
4に続く