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【小説】見覚えのない写真 4.ナレーションの町

見覚えのない町の写真
引っ越しの箱ひとつは、一体どこから来た誰のものなのか
無視したのか、見えないのか、いないのか
卵焼きは過去と現在が交じっています

見覚えのない写真

 
 まだ夜が明けたばかりだ。
 寝返りを打つと、ロフトベッドから少しだけ開いたクローゼットの扉が見える。あの中に例の箱が入っているのだが、あれから一度も開けていない。小野はベッドのはしごを降りると、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。インターフォンが二度鳴って、コップを落としてしまった。
 小野は壁にかけた時計を見上げた。こんな時間に尋ねてくる知り合いはいない。
 カメラがついているタイプではないから外の様子を知ることはできず、受話器をそっと外して小さな声でどなたですかと尋ねてみると、女の人が話している声がかすかに聞こてきた。なんと言っているのかうまく聞き取れず、受話器に耳を押し付けるようにする。どうやら、声は玄関先からではなくもっと遠いところから流れているようだ。
 もう一度どなたですかと言ってから、小野は自分の声が響いていないと思った。越してきた翌日に洗濯機を届けにきた業者の人が、インターフォン鳴らなかったみたいですと教えてくれたのに放置していたのだ。すると、さっきの音は近くの家で鳴ったインターフォンで、玄関を開けた人の家から女の声が聞こえたのだろうか。
 麦茶で濡れた足と床をティッシュで拭くと、小野はジーンズとシャツに着替え、目が覚めてしまったのを利用して、町をひとまわりすることにした。財布と鍵をつかんで静かにドアを開ける。足音が響かないように静かに階段を降りた。空はうす青く、空気はまだ濁っていない。
 ドアを開けると、さきほどの女の人の声がまた聞こえてきた。
 どこに行こう。とりあえず駅に向かうか。早朝のせいか、誰も歩いていないし車のエンジン音も聞こえない。そのせいか、女の声がよりはっきりしてくる。

『この町の人口は五百人です。中心に、町を二分する川が流れています。
 人口の比率は小学生が一番多く、次いで中学生、成人となっています。
 物品の運搬はすべて自転車で行われます。
 自転車は三輪で時速十キロまで、自転車でまかなえないものは、町の南端にある大きな家が担ぎます』

 まるで何かのナレーションのよう。それにしても、いったい何の話しだ?
 
 踏切をわたる。スーパーや郵便局があるのは小野のアパートがある踏切の南側で、北側にくるのはだからはじめてだ。
 マンションや高い建物がはひとつもなかった。ただふつうの一軒家がだらだら続いている。なんとなく小野が子供のころに住んでいた家に似ていると思ったが、壁が薄汚れていたり、屋根の色があせているような古びた家はない。
 家が尽きて道が細くなった。水の音が聞こえる。どこかに水流でもあるのかと探していたら、水位の低い緑色の川が現れた。
 そういえば、いつの間にか、ナレーションが消えている。誰かが窓を開けて、ラジオでも聞いていたのかな。

 鯉でも見えないかと川を覗き込んでみたが、暗いせいか何も見えない。いないことはないだろうが、とにかく見えない。生き物の気配のない川を見ていたら、なんだか怖くなってきた。誰かが後ろから見ているような。誰かいてもいなくても怖いのだ。
 小野は走り出した。川はやがてどこかに隠れて見えなくなった。さっきと同じような家が並んでいると思ったら、また例の声が流れてきた。
 
『えんじ色の瓦屋根は太陽の光を反射しています、玄関先には大きな木が植えられていて大きな葉が繁茂しています。
 いいえ、庭には犬はいません。静かなものです。柵で囲まれた空き地には雑草一本生えておらず、アスファルトの割れ目から棘のある黄色い花が咲いています。さあ、もうすぐ巨大な庭を持った巨大な建物が現れますよ。すっかり日が昇りました。どうぞ、頭の上にのしかかる夏を感じてください』

 ふと横を見ると、瓦屋根の家が見えた。それから、木蓮の木が塀からはみ出ている家。巨大な緑の葉。犬のいない庭。
 この声、自分がかけている場所をナレーションしてやがる。
 コンクリートで固められた空き地。巨大な建物は学校。校庭には誰もいない。
 
『あたりまえです、今は夏休みですから』

 なにを?なんだか無償に腹が立ってきた。
 声を振り切ろうと、でたらめに走る。ふだんは駅の階段を駆け上がっただけで苦しくなるのに、不思議と息は切れない。道にも見上げた家の窓にも庭にも人の気配はなかった。鳥の声すらしない。いったいこの町はなんだ。太陽が照りつけるなか、小野は走り続けた。

 やがて団地が並ぶ通りに出た。
 二階建ての家しかない町を歩いていたせいだろうか、団地は縦にも横にも大きくて、小野を圧迫してくる。ガードパイプの間をすり抜けて、団地群の中に入りこむと声がやんだ。どんな理屈か知らないが、ここには声も入り込めないようだ。
 右手の棟の最上階の階段の踊り場に何か黒いものが動いている。ひとつ、ふたつ。逆光でよく見えないけれど、人がいる。踊り場の壁の高さから考えると、たぶん子供だ。
 頭が動きはじめる。とんとんとんと、かるい足音がした。やっぱり子供か。頭は四階に降りてくる。とん、とん。すこし緩む足音。三階。とん、とひとつ。だが二階に降りてこない。小野は視線を動かさないように階段を睨みつけた。もう出てくるか出てくるか、と待つ。ぜったいにそこにいる。でも、出てこない。三階に戻ることも二階に降りてくることもない。間の部屋に入ってしまったのだろうか?
 しばらくそこに突っ立っていた。日が高く昇り始めると、なんだか白けた気分になった。小野は団地群を抜けて、再び歩き出した。通りには人や車が行き交っている。自転車で運ぶんじゃなかったのか。歩いているのはみんな大人か。
 なんだかすごくつまらない。そしてこのつまらなさは、とてもとても古いものだと小野は思った。
 

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