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天理教修養科1002期生の日記⑥
12月1日
始業式。
自分が所属している教会の教会長さんから、度々に因縁、縁という話を聞いている。
縁あってここにいる。
因縁あって巡り合っている。
それは所謂かしものかりものという話に繋がることになるらしいが、正直、分かったような分からないような…。
聞いて得心はするのだけれど、はっきりと自分の中にはまだ治まっていない。
とりあえず難しいことは考えずに目の前の事象だけを素直に受け入れていこうと思う。
修養科というところは、日本全国から様々な年齢の人が、様々な想いを抱いてやってくる。多くの人と出会えることを楽しんできてください。
そう言われていた。
人と話すのは好き。
修養科3カ月、縁や因縁を意識して自分のことも話していければいいし、いろんな人といろんな話をしてみたい。
普通に生活しているだけでは決して巡り合うことのない人達。
同期で奇跡的に巡り合ったことを、話をすることで共に喜びたい。
自分が参加する1002期修養科は男女合わせて68名。
少ないのか多いのかは分からない。
男2クラス、女1クラスに分かれることになる。
男クラスはさらに17名と18名に分かれた。
さて、ここで疑問を抱く。
男女を分ける意味って何?
自分はより多くの人と話がしたいと思っている。それはもちろん年齢や立場なんか問わない。
自分の話も聞いてもらいたいし、相手の話も聞きたい。そこで気付くことができるものも数多くあるだろう。
後に明らかになっていくが、講義の中で、ねりあいといったものや感話といったものもある。
それは、グループに分かれてテーマに沿った話し合いをするものもあれば自分の話を皆に聞かせるという形態のものもある。
何故、自分は男性の話しか聞くことができないの?
女性目線の話も大事だと思うし、それにより気付かされることは多いはず。
何より、教祖は女性ですよね。
男性の話し合いだけでは明らかに物足りない。
それに、同期のメンバーにいろいろ聞いてみると、今後教会長となられる方も少なくない。
そんな方が、修養科という貴重な期間に女性の話が聞けないのですか?
講義だけではなくて、ひのきしん等、ことある毎に男女が接触しないようにプログラムが組まれていますよね。
話したければ休憩中にでも話せ、てことですか?
ちょっと世間ずれしてるようなので軽く指摘させていただきますが、この修養科のように、管理する側が一旦男女で明確に区切ってしまったら、そこから交流を持つのは非常に困難なのですよ。
過去に何かトラブルがあって、その結果図らずもこういう形態になってしまったのかもしれない。
しかし、よく考えてください。
機会を与えることより抑制することの方が大事だと思っているのですよね?
話を聞き話をする機会を奪うことのメリットは何ですか?
教会の繋がりで元々交流がある人達はいいと思いますよ。いろんな話もできるでしょう。そこで修養科ならではの気付きを得ることができるはずです。
しかし、自分みたいな所属教会以外の教会とは何の繋がりもない人はどうすればいい?
また素人は置いてけぼりですか?
できるだけ多くの人と話がしたい。
この、単純な自分の望みは半分しか叶えられないことをこの日知りました。