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天理教修養科1002期生の日記⑦徒然なるままに
今、修養科生活を送るうえで自分が大切にしている言葉がいくつかある。
これらは、自分に付いてくれていた教養掛の先生にもらったもの。
修養科生活を送っていく指針ともなっている。
その中で特にお気に入りの言葉をここで紹介しようと思う。
修養科とは、他人に対して「優しさ」が許される場所。
最初聞いた時はよく分からなかった。
優しさに許されるとかあるのだろうか?
そして、自分は必要に応じて、周りに少なからず優しさを与えることができるとも思った。
だけど、どうだろう。
今の社会の中で優しさを前面に出して行動できるだろうか。
昔と違って近所付き合いもなくなってきている。
隣には誰が住んでいるのか分からない。
街に出れば、行き交う人は皆自分のことしか見えておらず、極力他人に関わるのを避けているかのよう。
スマホをずっと触っていたり、イヤホンを嵌めて音楽を聞いていたり、周りに辛そうな人がいても、それでは気付くこともできない。
コロナが大流行した頃は酷かった。
咳をしている人がいれば、嫌な顔をしてあからさまに離れていったり、マスクを忘れている人に文句を言って喧嘩になったり。
時代と共に犯罪の手口も変わり、物騒な事件も増えてきた。
安心して夜も眠れない。
こんな中、見知らぬ人から街で声をかけられて、笑顔をすぐ作れる人などいるのだろうか。
果たして。
自分の感じたことは概ね当たっていた。
自分が出した優しさが拒絶されるのだ。
今の世の中、優しさを出そうにも出せないのだ。
ならば、優しさが許される、とは。
答えは、修養科棟におけるやり取りにあった。
身体が不自由な人に対しては、誰彼構わず助けの手がでる。声がでる。
そして、それを受ける側も笑顔で受け入れている。
警戒心などはそこにはなく、ただ優しさのやり取りだけがあるだけ。
もちろん修養科生に限ったことではない。
おぢばに集まる人は神様の前では等しく優しくなっているように見える。
その最たるが修養科だと。
社会を離れておぢばに近いところでの生活。
自分の優しさはここでは拒絶されることはない。
社会では出せずにいたものをここでは躊躇しなくてもよくなる。
そんな安心感さえある。
それが、優しさが許されるということ。
自分はそのように受け取った。