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天理教修養科1002期生の日記㉒
12月20日
今日は朝の神殿掃除から始まりました。
0度はさすがに寒い。
本通り誰もいなくて寂しい。
回廊冷たい。
倉庫から南礼拝場まで遠い。
掃除機が何気に重い。
広すぎて終わらない。
掃除機のコードがからまって嫌になる。
正直な気持ちです。
自分は聖人君主ではありません。
このような感情は毎日当たり前のようにたくさん出てきます。
自分達が掃除している最中も参拝されている方はもちろんいます。
自分は南礼拝場の担当です。
当然参拝されている方を目にするわけです。みなさん寒い中朝早くから神様にお願いしています。
自分が雑念だらけで掃除している中、その方達は一生懸命にお願いしていました。
おそらく、朝勤めには時間が合わないのでこの早い時間に来ているのでしょうか。
その方達を見て思いました。
あー、この方達の思いが真っ直ぐに神様に届けばいいのにな。
自分は結局満足に掃除をやりきったとは思えません。
これはひのきしんではないなー、とか考えながら終えました。
しかし、こういう想いを抱かせてくれたことに感謝します。
講義ではねりあいと感話。
考えることがいっぱいありすぎて…。
午後からは長期ひのきしんと、定時ひのきしんのお手伝い。
詰所に帰ってゴミ箱洗いました。
疲れたー。
12月21日
「修養科一ヶ月を終えて」
という作文の課題が出ました。
これを書いているうちに少し分からなくなってきました。
知識は確実に得ているし、いい話もいっぱい聞いた。ここでしかできない体験も数多くある。分からないことや疑問にはすぐ答えてくれる先生もいるし、クラスメイトは気のおける人達ばかり。
教養掛の先生やそのご家族の方も何でも聞いてくれて、ヒントも与えてくれるし、心休まる言葉を多く送ってくれる。
けれど、自分は何も身についてないような気がしてならない。
なんか不安になります。
本部の神殿や詰所の神殿に座ってみても何かしっくりこない。
何なんだろうと思う。
まだ始まったばかりと言っているうちに一ヶ月が過ぎようとしている。
少し周りの色に過敏になりすぎているのかもしれない。
砂浜に寝っ転がったり、延々と夜景と星を眺めたりしたい。
身体の疲れは寝れば取れるけど、心の疲れを抜く方法を知らない。
生きにくい性格だなー、と改めて思いました。
明日は特別ひのきしんで浴場清掃。
一人で行くのはつまらないので近くの詰所の人と待ち合わせて行ってきます。
少し雨が降りました。
明日も雨みたいです。
日曜だけれどカレーじゃない日。
詰所が寂しいです。早くいっぱい人が来て賑やかになるのを待っています。
12月22日
所属教会のご家族の方から差し入れをいただきました。
嬉しいです。
自分にはお気に入りの行動が二つあります。手紙を書くことと贈り物を選ぶことです。
どちらも、自分の手間と時間を使って行う行動です。
相手のことだけを考える時間がそこにはあります。その瞬間は色々なものから開放されるような気がするのです。
世の中で行き交う手紙や贈り物全てに、こういう想いが込められているかどうかなんて自分には分かりません。
でも、似たような想いは必ずそこにあると思うのです。
だからお気に入りなのです。
だから嬉しいのです。
今日のひのきしんは千人風呂の掃除。
帰り道が同じ人と話していると、自分のある言葉がきっかけで行動を変ることができたと伝えられました。
きっとこの人はこれだけで修養科に来た意味があったのだなーとなんとなく思いました。
そして自分もこの人に何かを伝えるという役割があったのかなー、とこれもなんとなく思いました。
縁なのですかね。
縁なんですよね。
明日は朝の神殿掃除から始まって別席三席目があり、少年会の講習まで、まる一日。
とりあえず晴れてほしいなー、などと思っています。