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天理教修養科1002期生の日記㉑徒然なるままに
いくつか前の投稿にて、時間の計算ができてないことへの疑問を投げかけました。
ここでさらに踏み込んだ疑問を投げかけてみます。
ちなみに該当記事はこちら
まさに今日、お鏡開きのひのきしんに行ってきました。
疲れましたがなかなか良い経験をさせてもらったと思っています。
1月に修養科という立場であるものは優先して参加させてもらえるのですから有り難いですね。
担任の先生に少し話を聞いてみると、30年ぶりくらいにお鏡開きひのきしんに参加するとのこと。
滅多なことでは参加できないものなのだなと考えさせられました。
それはそうとして、疑問です。
ひのきしんとおつとめはどちらが大事なのですか?
この疑問を抱いたのには経緯がありました。
この日は朝の神殿掃除。
朝の神殿掃除終わりが6時30分頃
朝勤め終わりが7時15分頃
お鏡開き集合が8時15分
このタイトなスケジュールを皆どのようにこなすのか聞いてみたのです。
すると、神殿掃除を終えて朝勤めをせずに詰所にすぐ帰り、食事をとり、時間までに集合というところが多かったのです。
朝勤めは無しという選択をするところ、詰所で朝勤めを行うというところも。
それぞれの詰所が移動時間などを考えたうえで方針を決定しているようです。
このおぢばで、修養科という貴重な立場である者が、おつとめができないということは果たして正しいことなのですか?
それより優先させなければいけないひのきしんとは何ですか?
おやさまは終生おつとめの完成を願っていたという話を講義の中で聞きました。
おやさまの言葉は神様の言葉ですよね。
このひのきしんの時間設定は本部の都合ですよね。
9時だとダメであるという真っ当な理由が思い浮かばないのです。
修養科生にお勤めよりひのきしんを優先させるという教えは正しいのですか?
ある人にこの疑問を投げかけたところ、
お勤めが何より大事というその心が大切。
お勤めをできなかったことをまた神様に報告すればいいのでは。
詰所でもおつとめはできますね。
ということ。
そうですよね。
その心が大事。よく分かります。
だけどこれを言ってしまえば何でもあり。
適切な言い訳が用意されてるようにしか思えません。
おぢばでのおつとめと詰所でのおつとめを一緒にしてもいいんですかね。
おぢばに近いところで生活できる今は、おぢばでおつとめをすることの大切さ、その意味を理解しなければならないのではないでしょうか。
それが修養科生として今学ぶ姿勢なのではないでしょうか。
まず自分達は、学ぶ者としてお勤めを何より優先させる方法をとるべきだと思うのですが、間違っているのでしょうか。
本当に分からないのです。
ひのきしん、神様の御用と言えばどんなことでも筋を曲げてもよいといったそのやり方、本当に間違ってないですか?
その考え方を吸収してもいいですか?
今の自分は何でも吸収してしまうのです。
度々この言葉を投げかけますが、
このおぢばという素晴らしい場所、素晴らしい素材が揃っている場所で学ぶ者の足元をぐらつかせるようなことはしないでもらいたい。
疑問を抱かせないでほしい。
そんなに難しいことでもないと思うのですが。
どうかお願いします。