天理教修養科1002期生の日記⑤
11月30日
修養科始業式前日。
この日、天理教基礎講座を受講した。
前日に受講のお誘いを受けてのことだったのだけれど、行って良かった。
場所に不慣れな為、迎えにきてもらったのだけれどその道中でのやり取りが少し引っ掛かる。
新規修養科生がいるところに案内をかけているらしいのだけれど、どうも断られているみたい。
端的に言えば、基礎はできているから結構、みたいな感じかな?
本音は、面倒なんだと思うが。
無料ではないし、時間もとられる。
始業式前日というのもあるかもね。
けれど、基礎という言葉で敬遠されている節はある。
では、天理教ド素人の自分が、基礎ができているという方々にお尋ねするが、
天理教とは何ですか?
意外と難しいと思うよ。
教理がどうのこうのとかの説明はいらない。
あなたが信仰している天理教とは何ですか。
これが聞きたい。
もちろん即答できる人はいっぱいいると思う。
まあ、その答えが一般の人を納得させることができるかどうかは知らないが。
そして、思わず考え込んでしまう人。
基礎講座のようなものを積極的に受けた方がいい。
受ければその問いに答えることができるとかじゃなくて、学ぶことの大切さを「学ぶ」べき。
信仰歴の浅い者に見られていることをもっと意識してほしいと思う。
今回自分がその講座の中で心に残せたものは次の通り。
天理教を信仰すれば幸せになれる、とかではなくて、今あるものに満足する幸せを感じる感覚、そういう教えをいただく、それが天理教を信仰するということ。
これは、天理教を信仰することとは?
であって、天理教とは?
ではない。
と思う。
思い違いならごめんなさい。
後、基礎というのが良くない。
敬遠されているのも無理はない気がする。
人集めたいなら、もっと意識高い系の言葉を使った方がいいと思うよ。