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天理教修養科1002期生の日記④

11月の末頃、詰所での生活を始めました。
まだ始業式等は始まってはなかったのだけれど、詰所では修養科生としてのスケジュールがある。
そしてそれに合わせて生活し始めました。
朝早いとか掃除がいっぱいだとか、そんなものは全く気にならないのですが、分からないことが多いというのがストレス。
おてふり鳴り物全くできない。
天理教の話?ほとんど分からない。
当然内輪の話にも付いていくことはできない。
できない、分からない、というのが嫌でたまらなかった。
そこで、まず目標を。
おてふりを二カ月で身につける。
神殿で迷子にならないようにする。
分からない言葉はその場で質問する。

そんなこんなで始まる修養科生活。
まだ正式にスタートもしてないのに、さっそく考えさせられる場面に遭遇することになる。

本部朝勤めの時に起こったできごとだった。
まず教祖おでましに行き、その後西礼拝場へ向かうというのが自分のルート。
西側入口が少し騒がしくなっていた。
様子をうかがうと、体調を崩された方がいたみたい。
11月末の朝、寒い。
元々体調が悪くてお願いに来られていたのかもしれないし、いつものように朝勤めに来られていて体調を崩されたのかもしれない。
それは分からない。
その出来事を受けて、そこにいた人達はその方の無事を願ってお勤めをしたでしょうし、自分もその想いをもって朝勤めに臨んだ。
ただ、そこで疑問に思った。

神様の近くでお勤めをしようとしていた人が体調を崩してお勤めできなくなる。

これってどういうこと?
神様の、まさにお膝元で、何でそんなことにならなければいけないの?
多くの人にお願いをされて有り難いかもしれない、すぐ手を貸してくれる人が周りにいっぱい居てよかったのかもしれない。
本当に?
当人の心は本当にそれで綺麗に処理される?
その時の自分は、神様は助けてくれる存在、という認識だった為に、
神様って助けてくれるんじゃなかったのか。
そう思わざるを得なかった。
その出来事はなんかもやもやしたまま自分の心の中に沈んでいった。
その後いろんな人に、この出来事をどう捉えるか聞いてみた。
ただ、納得させてもらいたかった。
いろんな見方考え方があることを知った。
その中で、最もピタリとはまったものがあった。

自分が親だとして、自分の子供が遠い所で身上を抱えるのは辛いだろう。同じ身上を抱えるとしても、親なら自分の子供を近くに引き寄せたいはず。

その時思った。
自分はまだ「たすかる」ということについての理解が足りない。

今現在、少し学んだけれどもまだまだ分かっていない。
たすかりを願うとは何だろう
おたすけとは何だろう
この先、しばらく考え続けることになる。


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