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天理教修養科1002期生の日記⑰

12月15日
自分の所属教会の家族の方がたまに写真を送ってくださいます。
まだ小さい子供達なんですがとても可愛いのです。
そういう愛情が抱ける存在を意識すると改めて思うのです。
幸せや喜び、そういったものはすごく近くにあるんだと。

自分の身の回りにある幸せや喜び。
決して日々忘れるなんてことはないのだけれど、自分の心の乱れや余計な感情によって感じにくくなることはあると思います。

しかし、ふとしたきっかけで、その有難さを再確認する。
そういった時本当に心が温まるし、大切にしたい、護ってくださいと神様に願う。
そういった想いを抱かせてくれる存在には本当に感謝しかありませんね。

今日は特別ひのきしんで神殿トイレ清掃。
一カ所のトイレを4回掃除しました。
何で一カ所だけなの?
と思うか、
一カ所を4回もやれば完璧やろ!
と思うかはもはや心次第。
どういう心持ちで行ったとしても、最後は、「今日一日しっかりやりきりました」
そういう心を持つのがひのきしん。
その心を持つか持たないか、これも心次第。

掃除してる時に、ふと思い出した言葉があります。
某有名漫画に出てきた台詞です。
「ないものを数えるな、お前に今あるのは何だ、それを思い出せ」
それを言われた人物は、自分の無力さに嘆いてばかりいたのですが、その台詞によって自分の身近にいた仲間たちのことを思い出して再び生きていく力を取り戻します。

幸せや喜びは、人を動かしていく大きな力になります。
はるか遠くの景色を見るのもいいでしょう。夢や希望は大きくて遠いほど魅力的に映るものです。
しかし、そこに向かう力とは、自分のすぐ足元にある幸せや喜びなのかもしれません。
それに気付くことが道を歩んでいく力になる、今の自分はそう信じています。

今日の昼ご飯は本部食堂にてカレー。
美味しい。
めっちゃ食べた。
食べ過ぎた。

12月16日
今日の修養科でも成る程の話を聞いてきました。
(自分の考えと理解を加えて脚色します)
天理教の信者、信仰者だから救われるのか?それは違う。
親神様は世界の人々のたすけと陽気ぐらしを願っている。
それを知っていれば、教祖の言葉を理解することができるし、自ずから陽気ぐらしへの道は見えてくるはず。
信仰者はそれを「知っている」だけなのだ。では信仰者の役割、存在意義とは?
それは神様の守護を伝えること。
そして、神様の望み通りにおたすけの道を歩むこと。

ここで自分の疑問。
天理教を伝えることと神様の守護を伝えることはまた少し違うのではないだろうか。
神様の守護を伝えるために天理教を理解してもらう必要はあるのだろうか。

まだ理解が足りてないのは明らかです。
しかし、自分が天理教と共に生きていくとしてのヒントが少し見えたような気がしたのも事実です。
補足や、より深く理解を深める言葉があればまた教えていただきたいものです。

明日は別席二席目です。
次はどういった形で自分の心におさまるのか楽しみです。
毎日が楽しいと思う。
感謝しています。


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