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『パンデミック監視社会』

前回に引き続き、監視社会についての世界的権威であるデイヴィッド・ライアン教授の著書をご紹介します。本書を通してパンデミックによって、監視社会が深化、強化されたことを知って、私自身の危機意識を新たにしました。


マスク警察と隣人の監視

 2020年1月のダイヤモンド・プリンセス号の客船のニュースから始まったようなパンデミックのなかで、監視とも関係して最も印象に残っているのは、マスクですね。本書ではテクノロジーを使って監視が強化されていく点が最も注目されていますが、パンデミックは、私たちの対人関係においても監視強化につながっていることをライアン教授は次のように指摘しています。

監視の対象である私たちは、監視の主体にもなるからだ。アプリやカメラ、ウェアラブル端末が私たちを「見張る」一方で、私たちはこっそりとおたがいを盗み見ている―ちゃんとマスクをしているか、歩道の上で二メートルの距離を保っているか、近隣の住人が家族以外の誰かと会っている様子はないかと。さらに「無症状」「ワクチン接種済み」「濃厚接触者」といった分類のされ方は、私たちの自分自身への見方や、他の人たちへの見方、評価の仕方、交流の仕方、関係の測り方などに影響を及ぼすかもしれない。それは私たちが今日、新たな監視文化をつくりあげているためだ。

『パンデミック監視社会』

 パンデミックがはじまる前から玄米菜食といった食生活を中心とした健康志向の強かった私は、マスクを皆がつけるようになった時、マスクの弊害についていろいろ調べていくことで、マスクもしてはいけないものという意識を強く持つようになりました。ですから、健康診断で病院に行かなければならないときなど、やむをえない場合を除いて、マスクをほとんどせずにこのパンデミックを乗り切りましたが、私以外の人は見渡す限りマスクをしているようななかで、もちろんハプニングはありました。
 自分の住んでいるマンションの住人に、「しなくて大丈夫?」と聞かれたこともあります。比較的混んでいる電車の車内で、私のほうをちらっと見て、嫌な顔や舌打ちをされたこともあります。また、お店では店員さんにマスクを渡されたこともあり、だいたいははいはいと受け取って、持ち帰っていました。マスク警察に遭遇したこともあります。他の買い物客に、「あいつマスクしていない!」と叫ばれ、その声を受けて店員が私を追いかけてきて、マスクを渡そうとしましたが、その時は、言うと決めて、「日本国憲法でマスクをしない権利は認められている」と、その店員を振り切ったりしたこともあります。
 これからも強化されていきそうな監視社会ですが、マスクをしているか否かで、人々を分断し、していない人間を追い詰めていくような風潮が今は弱まっていますが、次のパンデミックが起きたときにはまたでてきて、監視文化といったものもそれによって育っていくのだと思います。そういう点を考えても、次回のパンデミックのときに、マスクをしない人が増えるよう、自分で調べて判断できる人が育っていくことが大事だと感じています。

接触確認アプリによる監視

 COCOAという接触確認アプリがあったことも、今となってはあの頃の一つの風物だったと感じる人が多いのでしょうか。アプリ利用者の間で陽性者が発生したときに、その旨を通知してくれるというものでした。なんとなく可愛い系の表現を使って、インストールさせようとしたのでしょう。
 私は外出などでもスマホを持ち歩かないことも多く、アプリをインストールすることもなく、関心も全くありませんでした。ただそういうものが世の中にでてきて、不具合がたまにでて、2022年には運用が停止されたことをニュースで聞いたくらいで、深く考えたこともありませんでした。
 この接触確認アプリは、世界的に大きく分けると2系統あったそうで、中国の「健康コード」のような中央集権型のものと、グーグルとアップルのAPI(GAEN) (グーグル/アップル接触通知システム)のような分散型のものとで、GAENの場合、アラートに従う責任はユーザーが負い、公衆衛生当局に個人データを送ることもなかったそうです。
 日本ではGAENをもとにしたアプリが導入されたわけですが、この接触確認アプリについては、分散型であっても、市民的自由や、統治性、市民権に重大な影響を及ぼすといった懸念があったようです。その一人であるキチンは、公衆衛生は市民的自由に優るという考えに反論していました。ライアン教授はキチンのアプリに対する反論の理由を次のようにまとめています。

第一の理由は、その技術が機能しないかもしれないためであり、第二の理由は、市民的自由を健康と引き換えにするのはテクノソリューショニズムの立場であるためだ。テクノソリューショニズムとは、頼りになるのは技術だけ、もしくは欠陥があっても技術はやはり助けになるという信念のことで、これではどちらにしろ技術を使わざるを得なくなってしまう。そして第三の理由として挙げているのが、技術と市民的自由のどちらにも有効な別の選択肢があるということだ。

『パンデミック監視社会』

 市民的自由を侵蝕する可能性のあるアプリだという認識をまずはもつことが大事だと思いました。と同時に、日本のCOCOAは、すでに運用を停止したので、さらなる発展は今のところなさそうですが、一度開発された技術が拡散していくことをクリープといい、注意が必要なことも感じました。クリープには、少なくとも二つの様態があることを、ライアン教授は次のように指摘しています。

「ファンクション・クリープ」という言葉が表しているのは、なんらかの監視システム、たとえば破壊行為防止の目的で設置された監視カメラの監視システムが、麻薬密売犯罪への対応などに用途を広げられるような状況のことだ。一方、「ミッション・クリープ」とは、ある大がかりな任務のために設置された監視システムが、まったく別の任務に再利用されることを指す。たとえば接触確認システムは、パンデミックではない状況での継続的な公衆衛生モニタリングに再利用することができる。

『パンデミック監視社会』

 再利用されることが懸念されていて、それを防ぐためのサンセット条項といったものがアメリカではあることも紹介されています。未曽有の事態に対処するために一時的に発動される緊急措置、つまり「例外状態」が、一定の期日を超えて存続しないようにするためのものだそうです。日本でいえば時限法のようなものかもしれません。
 そういった法律があってもうまく機能していないといった事例が挙げられていて次に引用しますが、事前に補足すると、ここで取り上げられているパトリオット法は2001年9月11日のワールドトレードセンターの崩壊を受けて制定されたもので、法執行機関のアメリカ国内における情報の収集に関する規制を緩和し、テロ行為との関係が疑われる人物の拘留や国外追放の規制を緩和、テロリズムの定義を拡大して法執行機関の権限を大幅に拡大したことなどで知られています。

2019年には、悪名高い米国パトリオット法の15の「緊急措置」のうち、12がまだ有効であるばかりか、永続的な法律としての地位を得ていた。また2001年9月11日の3日後に開始された、アフガニスタンの人物と接触したアメリカ市民を対象とする令状なしの違法な秘密監視プログラムは、エドワード・スノーデンの内部告発でその存在を暴露されたが、2019年には「合法」とされている。
パンデミックを受けて実現した通常にはない法律の変更や厳重な監視体制も、これと同じ道をたどるのではないかと懸念する声が多い。

『パンデミック監視社会』

 そういった懸念はあるそうですが、少なくとも日本では、そこまでの緻密な戦略を遂行できるような機関に、デジタル庁がなっていないのではないかと私は疑っています。河野太郎のような強引さだけが際立つ人が大臣をしているデジタル庁で、果たして、COCOAでの反省を次に活かそうとする戦略性があるかと考えると、たぶんなくて、そういう意味ではいいリーダーシップを発揮するような人が担当していないことが、監視社会の深化という点では幸いしているようには感じています。もっとも失敗続きのマイナンバーカードについては、いまだにあきらめていないようなので、こちらのほうで注意が必要ですし、アメリカとの連携において課題がある可能性はあって、そこで動いている策略は私たちには全く見えてこないので、油断は禁物ですよね。

在宅勤務も監視の一種

 在宅での勤務や学習も、監視を強化するものとして取り上げられていました。学生がテストをオンラインで受ける際、部屋中をカメラで撮影しなければならない場合もあったようで、自分の最もプライベートな寝室が覗き見られることへの抵抗感が大きく、導入をためらった大学も多かったという指摘に、むべなりと思いました。
 在宅勤務まではいかなくても、買い物をネットですませるようになった人は増えたでしょうから、インターネットの利用が増えるにつれて、知らず知らずのうちに自分自身が監視されている状況を自分で招いているとも感じました。ネット検索などをしているときに表示される広告などが、直近の検索と連動していることなども、監視の一形態としてとらえるべきものと知りました。それらを踏まえて、ライアン教授は次のように表現しています。

監視する側の多く、とくにプラットフォーム企業が実際に何をしているかという透明性は高くないにもかかわらず、監視する側にとって私たちの暮らしぶりはおそろしく透明なものとなっている。

『パンデミック監視社会』

 この状況というのは民主主義社会において望ましくない状況で、本来であれば、政府のしていること、ならびにその政策を遂行するために使われる技術も含めて、それらを私たちが知らなけれれば賢明な判断はできないのですが、現実には、私たちの情報は政府や企業に蓄積され把握され続けているにもかかわらず、彼らが何をしているかはわからないという状況になってしまっているわけです。この関係をただすために、まずは自分でできることから始めていくしかないわけで、次回の投稿では、ブラウザでマイクロソフトエッジを使うのをやめて、DuckDuckGoを使い始めたことなどについてご報告しようと思っています。

テクノロジーは人間の必要のために

 プラットフォーム企業などが巨大化していくなかで、監視資本主義という言葉も生まれてきたようです。この本で初めて見たような気がする用語で、2019年にまさにそのタイトルの大部な本がアメリカで出版されたことを知り、これも遠からず読んでご紹介します。
 以前からできつつあった監視を中心とした経済構造が、パンデミックによって一挙に拡大したことは本書を通じて感じることとなりました。そのようななかで、ライアン教授が本来目指すべき方向について述べられていますので、その部分を引用して本稿は終わりにしようと思います。

監視が大きな役割を果たすデータ関連の活動では、その枠組みは技術ではなく、人間を主体とするものであるべきだ。言い換えるなら、技術は人間の必要のために、さらにいえば人類の繁栄のために創り出されるもので、その逆であってはならないのだ。(中略)今回のパンデミックで非常に多かったのは、新しい技術の可能性が興奮を呼ぶあまり、パンデミックの影響をやわらげ人類に恩恵をもたらすという本来の役割が薄れてしまったように感じられる点だ。

『パンデミック監視社会』

人類の繁栄はなんであれ、たとえば「健康」といったただ一つの特徴ではなく、政府による過度な統制からの解放や、生きるのに必要な基本的資源(食料、住居、人間関係)への十分なアクセスなど、いくつかの補完的な特徴によって定義されるものだ。 

『パンデミック監視社会』

 現在WHO(世界保健機関)が進めようとしている、ワンワールド、ワンヘルスのもとに、すべての人間が同じ治療を強制され、行動を制限されるような方向ではなく、各人が自由に活動し意見交換するために技術を活用し、多様な選択肢のなかから自ら選んで、それで全体が繫栄していくような社会を目指していきましょう。

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