エホバの証人の言う、聖書に答えがある=考えるな
エホバの証人(以降JWと略)の勧誘の話題の一つに:
「すべての問題の疑問に対する答えは、「聖書」にあります」
です。
現役または以前はJWだった皆さんは、「すべての問題の疑問に対する答えを聖書から得た」と思いましたか?
私は、「NO」です。
「聖書」や「JW」を通して、疑問の答えを得る事はできませんでした。
結局のところ、色んな体験をし、本を読み、調べる事によってでしか疑問の答えは得る事はできませんでした。
例えば、「人が悪を行うのはなぜか?」
JWでは、「人は不完全である」ことや「サタンによって惑わされている」事が答えとなります。
(『目ざめよ』などの雑誌には、いくらかの科学的な解説をする場合もありますが、どうあっても「不完全」「サタン」が理由とされます)。
しかし、「これらだけが答え」とされると、どうしても不完全燃焼気味でモヤモヤとした感覚に包まれました。
しかも、不完全やサタンのせいとなってしまうと、「どうにもできないじゃん」と言う無力感や、「何か悪い事が起きたらすべてサタンのせい」と無責任な態度すら生じかねません。
しかも、一番問題かなと思うのは、一応「聖書が答えを与えた」事で、これ以上は、
「何事も深く考える事がなくなります」
JWに問題が生じた時に、答えを探すためにやる事と言えば、JW発行の雑誌などの出版物を読み、聖書を読み、仲間のJWに何らかの形で援助を求めると言う行動に出ます。
しかし、この行動のどれを取っても、JWの中の枠内でしか物事を見ていないんです。
こうなると、どうでしょう?
視野の狭い、凝り固まった考えに思考が支配されたままになります。
このため、何かしらの問題に陥った時には、問題について考えるための材料は乏しいために、解決に至る道が見えなくなります。
雑誌には古い情報、聖書からの言葉はJWの独自解釈、仮に仲間に何かを相談したとしても、JWコミュニティの考えはJWの教えている事のみが絶対なので、広い知見からの話はできない・・・
これは、カルト宗教の特徴まんまで、狭い見識の中に考えを閉じ込めてしまうため、考える事をやめさせています。
また答えになっていない答えをありがたがったりなんかします。
例えば、明日のパンも買うのも厳しい経済状態なのに、「信心し物質主義に染まらず、耐え忍べば生きていける」と言うのは本当に実践的な答えと言えるでしょうか?
これで、エホバの教え最高!ありがとうございます!!
となるのは、大した問題に陥ってないか、よっぽど現実逃避したい人でしょうとしか言いようがありません。
「聖書にはすべての答えがあるから」と言う発言は、
人間が観察・研究し、それを本や論文、動画と言う形で発表していても、これらの事を軽視することに繋がるんですよね。
だから例え、聖書以外またはJWの出版物以外のものから答えを得られそうになっても、その答えをしっかり咀嚼する事なく、スルーしてしまいがちになります。
このために、問題に直面した時には、いったんは聖書を通して教えられている通りに行動します。
しかし、どうにも問題が堂々巡りとなり、まるで蟻地獄にハマったかの様な状態になり、そこから抜け出る事ができません。
これは苦しい!苦しいです。
精神が病みます。
教えの通りに行動したはずなのに、問題が解決するどころか、更に状況が悪くなる場合なんかもあります。
この「教えの通り」と言うのが厄介です。
自分なりに考えて、その教えを選択し、それを行っているようで、実際には考える事を止めて、他所に判断を委ねている状態になってしまうからです。
何かを参考にして物事を判断するならいいのですが、実際には、自分の中では充分に思考が出来ていない事も往々にしてあるのでは無いでしょうか?
または、JWや聖書の教えの範囲から答えを出す事を良くないととらえてしまい、思考の幅を広くすることができなかった事は無いでしょうか?
私は、私なりの考えで「こうかもしれない、こうしたい」があったにも、関わらず、やっぱり聖書やJWの考えと違うかもしれないと自分なりの考えを否定している事が多々ありました。
それが、苦しみの一部となりました。
聖書やJWの答えを得る事=「考えるな」は一見、楽な事の様で、楽では無いです。
自分で「考える」も決して楽では無い事ではあります。
でも、どちらが満足の行く答えに行きつくかと言えば、後者でした。