エホバの証人として選んだ職業にモヤモヤ

何かを選択する時には、エホバを基準にして生きる事を勧められるエホバの証人です。

人生の中の重要な選択として、職業、結婚などがあります。それらの選択においても、エホバの証人として職業選択をしたり、結婚相手を選ばなければなりません。

職業は、JWとして聖書の教えに反しないものは当然。ギャンブル、風俗、反社会的な形での日々の糧を得る方法は、一般人でも避ける道です。ここまでは、いいです。

しかし、問題となってくるのは、職業選択をする際に、
やれ、勉強する期間が長いだ、時間がとられ過ぎるだ、楽園に行ったら使えないだ、世との交わりが増えるだなんだと、職業選択の幅を狭められます。

例えば、医療で言うと、医者や看護師は長時間労働だし、夜勤もあるしで、集会や奉仕に十分に参加できないし、楽園では病気になる人はいないから、ダメ!とかです。

反対に、建設に関連する仕事なら、JWの集会所の建設の際に役に立つからと、積極的に勧められる職と見られます。

この上で、奉仕や集会のためにどのくらいの時間がさけるのかどうかを考慮して職業選択をします。

特定の職業を選ばなければ、非正規雇用、アルバイトやパートと言う形で日々の糧を得る生き方になります。

そして、私もJWの例にもれず、JWとして生きて行くのにふさわしいであろう職業を選択し、専門学校に通い、仕事をし始めました。とはいえ、自分が興味を持ち、楽しんで行えそうな仕事を選択しました。

学ぶことは楽しく、仕事もやりがいがありました。それなりにいい職業を選んだと思っていました。

しかし、紆余曲折あって、JWから離れ、しばらく経った頃にふと、

「私は本当に自分でこの職業を選んだのか?」

どんな選択においてもエホバを喜ばせる事を最優先に考えつつ、自分が出来そうな事を選択するって、本当に自分の心が選んだものなのか?

何らかの専門の職に就くと、誰しも楽しいと情熱に燃える時期があったり、スランプに陥って、その職を続けて行けるかどうか迷ったり、色んな感情が湧いては消え、そして感情を消化してと言うのを繰り返して、その中で、自分なりに考えて、その職業を辞めたり、続けたりと言う選択をするものだと思います。

しかし、なんかこうJWだった頃の自分が選んだ人生と、その頃の選択に疑問が出てしまっては、どうにも気持ちの消化が上手くできなくなりました。

結局、自分は自分の心の内からの行動を取っていたのでは無く、JWの教え、JWの仲間やその雰囲気に流されて、物事を選んだのでは無いかと思うと、何とも言えぬ気持に駆られてしまいました。

うーん、10代のうちに自分の心が何にも影響を受けずに何かを選択すると言うのは決して簡単な事では無いと思うんです。

JWの集会に出席する前の自分が思い描いていた未来と、JWの集会に出席しだした自分の未来は、実は異なっていたなと言うのを思い出してしまうと、
自分の心を無視してきたもんだなぁと複雑な気持ちになりました。

自分の心の感じるがままに生きるが、自分勝手に生きると言う誤認にならない範囲で、自分の心がどう感じるかで物事を選択して生きる練習がしばらく必要だなぁと感じます。

職業は現代では、下手したら人生で一番多くの時間を割く事柄ですから、自分の心に正直に選びたいものです。そこには、やっぱりJWからの影響を無くした状態で心の感じるがままを表現できる状態を自分に作るしかないです。

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