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ウクライナ出身のアンナ職員によるワークショップ「世界をもっと幸せな場所に~偏見、差別、暴力をなくす一歩を」
最近忙しいので、毎日20分いないにかくことにしmします。でもそうすると、焦ってしまって、木に竹を継いだような文章が出来上がると思うのですがやむをえません。それも訓練です。
⇩今日書いた文章も、問と答えが矛盾してたり、合致してたりしないところが多くありますが、20分なので校正を不承不承諦めます。誤字脱字も多いです ( ノД`)シクシク…
昨日の日記で、ウクライナ出身のアンナ職員によるワークショップ「世界をもっと幸せな場所に~偏見、差別、暴力をなくす一歩を」に参加したと書きました。今日は、みんなの前で発表できたーというただのぼやきではなく、ワークショップで考えたことを”適当に”まとめたいと思います。
私の、完璧主義であることの弊害をなくすためにあえて”適当に”という言葉を使いました。誤用なのは知っています。よく、適当、と言う言葉の誤用が指摘されますが、人々が間違えて使うようになった背景には、物事が「適当」に運ぶには、「テキトウ(誤用されている使い方)」に物事をする必要があるとみんな自然に気づいているからだと思いました。
力を入れすぎずら手を抜いて物事に取り組んだほうが、「適当」な結果をもたらすということです。
本題に移ります。
昨日はグループワークで在日クルド人へのヘイトスピーチの問題について考えました。
①なぜ起きてしまったのか。
②私たちに出来うことは何か。
ざっくりいうとこの二つについてグループで意見をまとめました。
まず、「なぜ起きてしまったのか。」について。
ヘイトスピーチは偏見から生まれるものです。偏見というのは、客観的な根拠なしに抱かれるもの。例えば、クルド人の誰かが、違法なことをしたり、住民ともめたりすると、それがまるでクルド人全員がそうであるかのように思ってしまう。それが偏見です。
クルド人の何人かが違法な行為をして、実際にそういう事例が多数あったとしても、「クルド人の中でそういうことをする割合が高い」ということは事実としていえるが、「クルド人がみんなそうである」ということは当然ながら言えない。言えないのであれば、クルド人に対して、違法なことをする可能性が高いという事実は認識していても、それらをクルド人全般がそうであると思い、クルド人という集団に敵意の目を向けることは、不当である。
そういった偏見を持つということが、ヘイトスピーチが生まれた一因と考えました。
あとは「心に余裕がない人」です。彼らが日常の不満を、クルド人と言う集団にぶつけているののでは、と言う話も出ました。
次に「私たちにできることは何か」について。
まずは、知ること。クルド人のことを知れば、彼らを集団としてではなく、1人一人の人として見れるようになる。そうすれば、平気に人の心を傷つけるヘイトスピーチもしにくくなる。本や映画、メディアを通して、知るのもあり。クルド人が多い地域に実際に出向いてみるのもあり。
二つ目として、教育が話に挙がりました。クルド人の一部が何か事件を起こしたとしても、それをもってクルド人と言う集団に敵意を向けることがないような寛容な人格を養う。年齢の若いうちから、学校などで。
また、自分の心に余裕がなかったとしても、その不満のはけ口にクルド人などの集団への攻撃を利用することがないように、生徒を教育する。
人間社会である以上、「ステレオタイプ」が存在するのは詮方ないことだと思うが、そこからさらに転じて、敵意や非好意姓をもった偏見を持つべきではない。それを持つか持たないかは、若いころに受ける教育や、彼らを「知る」ことによって、きまると考えた。
(本日フランス語済み)