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[連載小説第3話]あなたは2026年1月1日に死にます。さあ、何をしますか? #3
毎週木曜日22:30更新
寿命まであと 343 日
今週の教訓(目標):失敗した数々を思い出したとき、それらを言語化しよう
5. 悪魔の仲介者
「うざ」
「きえろ」
「しね」
「だる」
「きも」
「きっしょ」
私からしたら耳を塞ぎたくなるような言葉の羅列だった。明るく言ってしまえば、笑いに包まれることもあるこれらの言葉たち。こういう言葉をよく使う人たちはきっとこの時代にたくさんいて、本人たちは深く考えることなく使っているのだろう。
『あいつらにとっての冗談が
俺にとってナイフのようだった
それを見ながら笑う傍観者
果たしてお前はどうなんだ』
(GADORO/ここにいよう)
この言葉は、ある歌の歌詞からとった。私はこの歌詞をきいたときに一度音楽を止めたのを覚えている。良い歌詞に出会った時、良い文章に出会った時、私はそれを止める癖がある。じっくり考え、味わいたいからである。
私は、言語化というものの本質を知らなかった。だから何か嫌な感情や、複雑な心境になったときにはそこから逃げていた。厳密にいうと、抽象化していた。例えば、友達のことが嫌いになってしまった時、友達のどのような言動が引き金となったのか、自分がどう行動したらそれを防げたのかを分析するのが具体化である。それとは反対に私がやっていたのは、結局のところ人間には合う合わないがあって、この人とはあわなかったのだ、相性が良くなかったのだと、一対一の関係性を世界規模の人間の法則のようなものにあてはめようとしていた。
この歌詞をきいたとき、私は思っていたよりも多くの具体的な経験が頭に思い浮かんだ。ここで初めて、気付いた。あの時自分が傷ついていたのだということを。言語化することによって、自分の感情が整理されたり、誰かの気持ちを動かせたりする。そのことを切に実感した。
言語化は、可能性に満ち溢れたツールだ。当たり前だが、人は皆違う。役割も違う。私のお母さんの娘役をするのは私だし、仮に兄弟姉妹がいたとして、長女が担う役割と次女が担う役割は各家庭により程度の差はあれ異なる。それに加えて、学校での役割、その友達の中での役割、仕事での役割、と挙げていくとキリがない。とにかく、人間は数多くの役割を組み合わせて生きている。
そんな風に考えていくと、人と人とが理解し合うのは途方もない道のりのように感じる日があるかもしれない。だが、有難いことに人間には言葉がある。そんな風に、違った背景で生きてきた人を理解するための有効なツールなのだ。
言葉をどう使っていくかは、その人の人となりがあらわれるといっても良い。一言、言葉といっても、それをどう扱うかは人によって様々だ。ソフトで柔らかい人もいれば、とげとげしくてハードな人もいる。私は前者を天使の仲介者、後者を悪魔の仲介者だと勝手に呼んでいる。
時と場合にもよるが、冒頭のような言葉を頻繁に使ってしまう人は、悪魔の仲介者を連れている可能性が高い人だと私は認識している。
たまに、口が悪いのにも関わらず、「あの人、根は優しいから」と言われている人がいる。そういった類の人は、言葉を舐めている。私たちが紡いだ言葉は、私たちが思っている以上に相手の心に届いているのだ。
100歩譲って、本心は優しいのに言葉が攻撃的な人が実在するとするならば、その人はかなり損をしている。「この人、本当は優しい人なのかも」と非言語的な情報から読み取ってもらえたとしても、「きも」などと発言した瞬間それは打ち消される。
人間が生きていく限りは、時に人を傷つけてしまうことはあるかもしれないけど、言葉を適切に選んで、自分と相手との間に、なるべく天使の仲介者をかいせるようにしていきたいと思う。語彙がないと咄嗟に冒頭のような言葉しか出ず、人を傷つけてしまう。だからこそ人間は言葉というものを学び続ける必要があると私は思う。
6. 救世主の言語化
最近、昔の失敗をよく思い出す。思い出して、嫌になる時がある。そういう時はどうすれば良いのか、割と考えてきたが答えは見つかっていなかった。しかし、最近見つけた気がするのだ、その答えを。
私は元々、人を頼ることができない性格だった。もっというと、人を信頼できず、他者に相談することが全くできなかった。
「誰かに悩みを話したら楽になるよ」
もはや誰に言われたのかも忘れたくらいよく聞いた言葉だが、私はそれに反対だった。そんな、自分の悩みを打ち明けても良いと思えるような関係性の人がいなかったからだ。しかも私は、そうやって人に悩みを打ち明けるような人間を毛嫌いしていた。1人で生きていくことのできない、ダサくて弱いヤツだと思っていた。
そんな私が人生で初めて、相談した相手がいた。その人は、疑問に思ったことを躊躇なくなんでも聞いてくるような人だった。嘘がつけない、純粋な人だった。
その人と関わっていて、大事なことに気付くことができた。言語化こそが、自分や他者を理解するための最適なツールだということを。
思い返せば、言語化が上手い人は生きるのが上手だった。喧嘩は勝てるし、普通なら怒られるような場面でも上手く乗り切れるし、周りの人からの信頼も得ていた。
noteでもそうだが、言語化してみて、またはしようとしてみて、初めて気が付くことは少なからずある。音楽を聞いている時、詩をよんだ時、誰かの言葉を聞いた時、ふと自分の感情が引き起こされることもある。
自分にとって重大な出来事について振り返る時、それらを抽象化したり、逃げたりするのはあまり本質的な解決になっていないと私は思っている。なぜならそうする事で、出来事がより大きなことに感じられてしまうことがあるからだ。言語化は、私たちが思っている以上に私たちの心を穏やかに整理する。自分の中では、「こんなに酷い経験はない。」と思っていても、言葉にして読んでみると「なんだ、案外こんなことか」と少しだけ思える瞬間が意外とある。
客観的に自分の過去を振り返りたい時、それは必ずしも相手を必要としない。一度きりの自分の人生、自分が自分のことを一番に理解してあげたいと思う。だからこそ、昔の経験を思い出して落ち込んでしまった時には、その経験を言語化してみてほしいと私は思っている。
あと、生きているうちにやりたいことも言語化しておいた方が良い。言語化しておかないとすぐに忘れるし、死ぬ間際に「これやってなかった」と思い出して後悔するのは誰だって嫌だろう。
『後悔はするな。だけど反省はしろ。』
私が好きな言葉だ。人間は失敗する生き物だけど、自分を理解せずに命が終わってしまったということだけは避けたい。私の生があるうちに自分自身のことを理解する。残りの343日間、言語化を大切に自分自身に向き合いたいと思います。