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大浦信行 作「遠近を抱えて」シルクスクリーン 19/90

大浦信行 作「遠近を抱えて」

先日買い求めた作品を紹介。
大浦信行 作「遠近を抱えて」。
1986年、富山県立近代美術館の企画展「とやまの美術」に出品された「遠近を抱えて」14点の内の1点、そのエディション(19/90)シルクスクリーン作品です。

この展覧会では右翼による抗議活動が起き、美術館は作品の非公開と売却を決定、それにたいし大浦氏らは「表現の自由」や「知る権利」を侵害されたとして、県を相手取り、損害賠償や不許可処分の無効確認、作品の買い戻しなどをも求めて提訴します。「昭和天皇コラージュ事件」ですね。

また、「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由展・その後」では、「遠近を抱えてPartⅡ」として大浦氏による「遠近を抱えて」を燃やす映像作品が展示され話題となりました。

とはいえ、現在の我々から観れば、穏やかな作品ですよ。
これが不敬であった大らかな時代がうらやましくもあります。
天皇崇拝者である私でも特に問題と感じませんでした。肖像は天皇御自身ではありませんので。

「表現の不自由展・その後」の顛末を見て思うのは、展示する側、批判する側共に自身が被害者だと考えているところです。
「昭和天皇コラージュ事件」の頃のように右翼団体等の利権も支持もない中で、これらを批判したのは「普通の(あぶない)ひと」であったように思います。
彼らのそれはアートという権威への反発でもありました。

しかし、展示する側は「表現」にたいする外力、権力からの圧力と考えた。
だからこそ「表現の不自由」という対権力の言葉が使えるわけですから。
どちらも被害者、どちらも相手を権威と考えている中で、違いと言えば展示する側は「表現」ができること。

であるならば、表現に関わりそれを守ろうとする人がしなければならない事は一つ。
批判した「普通の(あぶない)ひと」の表現を守り、世に出していくことなのではないでしょうか?
彼らは何故批判せざるをえなかったのか、その生い立ちを「知る」そして問う必要があるのではないか?たとえそれがヘイトであっても。

始終被害者としての言葉しかなかったBTの特集を読むと、難しいのだろうなと思いますが。
(この問題に向きあう、鈴木大介著「ネット右翼になった父」を買いました。まだ読んでませんが楽しみです。)

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さて、この世にある本当の意味での「表現の不自由」作品とは何か。
そんなことを考えると楽しくなりませんか?
表現として生まれながら、決して表には出てこれないもの。
そういった作品ってなんだろう?

風刺であるチャップリンの映画だとか、浮世絵だとか。
でもまぁ、こういう表現は必要なのでしょうがつまらない。
ヨーゼフ・ボイスとかの反権威スタイルは、現代の私たちには刺さらない。
バンクシーだって反権威スタイルをまとったアート権威主義でしかないでしょ。
(あぁでも、呉智英氏の『吉本隆明という「共同幻想」』は反権威として面白かった。これを美術としてできないかな?)

今さら戦争画なんてタブーでもないし。
ただ、最近話題になった、ウクライナで作られた死んだロシア兵の衣服で作られた呪いの人形はなかなか。

じゃあ、犯罪者の獄中絵とか。
永田洋子、植松聖、林眞須美......
けどこれらは、永山則夫の「無知の涙」みたいなもので、後ろ盾あるし、表現が咎められているわけでもないし。
寧ろ例えば、オウム真理教の麻原彰晃の説法テープとか、坂本弁護士一家が殺害されるきっかけとなったTBSのインタビューとか。
美術作品ではないけど。

今なら旧統一教会関連かな?
または、北朝鮮。
東京美術学校で学び、北に渡って金日成やスターリンの銅像を手がけた彫刻家、文錫五の作品は観てみたい!
中国では依然紹介した红光亮のつげ彫刻。
https://prewar-sculptors.blogspot.com/2021/03/70.html

こういうわかりやすいタブーではなく、「表現として生まれながら、決して表には出てこれないもの」というくくりなら、例えば70~80年代に芸大出たけれども鳴かず飛ばずで晩年となった独居老人作家の作品とかを集めて.....嫌すぎる。

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