村山知義 述「演劇原論(Ⅱ)―社会主義的演劇の発展と唯物弁証法―」とポリコレ♥
マルチクリエイターのはしりである村山知義。
社会的規模の小さい中ではあるけれど、前衛、プロレタリア美術と彫刻、絵画、デザイン、イラスト、演劇、舞台、建築とを網羅しつつ「先」へと進もうとしたそのエネルギーが熱い。そしてウザい!
その熱いウザさを、演劇方面でまとめた本がこの「演劇原論(Ⅱ)―社会主義的演劇の発展と唯物弁証法―」です。
さて、この本では、まずは日本の社会主義的文化運動の黎明期から関わる人物の説明を始めます。
その内容が結構辛辣。どこまで本当か分かりませんでけど。
例えば
『「犠牲者」「カムチャッカ行き」を上演し、その演出をしたのが佐野碩で、プロレタリア演劇が大合同して左翼劇場ができて、弾圧がはじまるとすぐヨーロッパへ亡命した人です。この人は駿河台にあった佐野病院の院長さんの息子さんで、初期共産党の幹部であった佐野学の甥で、勢力のある親族もあり、お金もあったので、本当をいえば捕まるところだったんだけれども、当局に話をして、外国に行けば許してやるという条件で外国へ行った人です。ぼくなんかお金が無かったし、勢力のある親族もなかったので日本にいて捕まいましたけれど、その時外国に行けた人が佐野碩とか土方与志とか、ちょっと後になって千田是也などです。』
なんて書いてあります。
恨みがましい。
あと、面白かったのが
『唯物弁証法的創造方法というのが社会主義的創造方法の前に芸術上の創造方法を支配」しているという記述で、その「唯物弁証法」をこう説明します。
『絶対的なものは存在しない、ものはすべて相対的である。永久のものは存在しない時間的である。固定し静止しているものは存在しない、常に流動し変改している』
これを「唯物弁証法」の基本思想だと言うのです。
それって「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」って事ですね。
つまり仏教における「無常」。
ただ、村山知義はその流れ続ける川が「進歩」していると考える。
その「進歩」の理由として『ヘーゲルの完成した観念論的弁証法が、唯物弁証法というものに発展してゆく」と西洋哲学の歴史を示し、『これを創ったのがまずフォイエルバッハであり、マルクスであり、エンゲルスであり、それをさらに発展させたのがレーニンであるということになります。』と。
西洋哲学(その裏にあるキリスト教)と仏教等を理由に「唯物弁証法」を正当化します。
信仰の「信じる」という姿から導かれた理論で正当化。
それって、それそのものが「信じる」からそうなんだって言っているのと変わらない。
「私はマルクスをエンゲルスを、レーニンを信仰していのだ!」って。
『人間は真実を追求し、真理のために何を尽くせるか、真理を守るために一生を捧げるという気になるものです。真理は人類全体の幸福にかかわったものだから、私という小さな一個の生命はそのためにささげようとなるはずのものです。社会主義全体では、みんなこういう気持ちになれる。』
オウムの麻原彰晃が、常に「真理」「真理」と述べてたような危うさがあります。
第二節はプロレタリア芸術史のまとめと社会主義リアリズムとは何か論
日本プロレタリア芸術史を簡単に要約すれば、
①ソビエトより「唯物弁証法的創作方法」の輸入
②福本イズムによって現実と離れた極左的化する
ソビエトの「ラップ」も同様の誤りを犯す
③昭和8年 社会主義リアリズム提唱
④満州事変直前、3.15や4.16で検挙され、人手が足りないところにオルグが入り込む
⑤村山知義と久保栄 社会主義リアリズム論争
とまとめます。
そして、社会主義リアリズムとは、先の「唯物弁証法」を信じたうえで、「資本主義は全て階級社会であり、階級間の戦い、矛盾によってより高度な社会主義社会を生みだす」という階級的歴史観に立って「現実」を見、その「現実」に対する「愛」として社会主義的「リアリズム」があると。
最後に「愛」という普遍的(に見える)もので「社会主義的」の土台とする姿は、なかなかやるな~と思います。
なんらかの「イズム」の信仰にはこういったものが必要でしょう。
そして、そんな社会主義リアリズムによって、日本だけでなく、ソ連や中国でも「愛ゆえに」内ゲバが起きたり、粛清されたり、文革あったりするわけです。
昨今のポリコレとその批判も同じ歴史を歩んでいる様に見えませんか?
違いは、社会主義リアリズム論争はソ連や中国のような大きな権力で統一化された事。
だからなおさら、当時の日本の社会主義リアリズム論争のように、「何が正しいか」を彼らの内側だけで論じている。
もともと、「ポリティカル・コレクトネス」はソビエト連邦共産党の政策と原則の遵守を求める言葉が起源らしいですしね。
信仰と愛による「何が正しいか」のイズムによって他者を染めようという運動は、山岳ベースで自己批判されるべきだったと思う。
それができないのが人なのだとしても、超人にはなりえないとしても、そのあたりでウロウロする姿そのものを否定しないであるのが、「芸術」であって欲しい。
(でもそれってアートじゃないのよね)
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