「暗すぎる日本の葬儀ってどうなん?」はっぴーの家 死生観探究講座オープニングイベントレポートvol.2 #NO死生観NOLIFE
去年の秋から始まった死生観探究講座。そのオープニングイベントとして、公開型ミーティングが開かれました。
全国の方やはっぴーの家に住んでいる「ろっけんガールズ」にzoomで見守られながら、豪華な講師の皆さんと死生観について語ります。
ワダケン:次のトークテーマは「暗すぎる日本の葬儀って、どうなん?」です。この講座を企画しているときに、知ることを大事にしたいと首藤さんと話していて。葬儀のイメージを広げていくきっかけになればと思っています。
お葬式に手間と時間をかけないことは、本当に良いことなのか
小池:大切なことは"手間"と"時間"だと思います。これがこれから私がやっていかなければならないことで、この講座でも伝えたいことの大きな1つなんです。今のお葬式は、時代の縮図でもあると思っています。
今の時代は、どんどん手間と時間をかけないようになってきています。とにかく手っ取り早く、より安く、より速くという方向に時代が流れています。お葬式の現場もまさにそうなんです。
「隣保」という言葉があります。集落や村のつながりという意味です。かつて、すべてのお葬式は自宅でやらなければならなかった。昔はみんな貧しいし、家もそんなに大きくない。そうなると「困ったときはお互い様」で、向かいの家や隣の家にお部屋を借りていました。一人のお葬式を出すために、いろんな人の力を借りながら、みんなでお見送りをしていたんです。
だから、どんなに普段嫌な人でも、お葬式のときには頼らないといけない。すごく煩わしい近所付き合いもやらなければいけない。でも、そうするしかなかったんですよね。つまり、一人を見送るためには、手間と時間をかけざるをえなかった。
ところが、どんどん時代が経済的に豊かになって、それをお金で解決できるようになってしまった。お金を出せば、そんなに煩わしい思いをせずに、全部整った綺麗な会館でお葬式ができてしまう。
今は、家族だけで見送るのがお葬式だという常識になりつつあります。でも、そもそもお葬式は、その方がどういう方だったのかを確認する大切な機会でもあると思うんです。生前に伝えきれなかった思いを、喪の作業として伝える機会が葬儀だったわけで。
暗すぎることへの問題意識よりも、私はどちらかというと手間や時間をかけないところに、本当にそれでいいのだろうかと感じています。だからこそ、死がすごく遠いものになってしまったなと思うんですね。
人は必ず死ぬということを学べる場が昔は地域だった。でも今は普段の生活の中で、死は全く見なくて良いものになった。そのことで、人間の価値観で命というものをはかってしまうような勘違いが今起こってしまっているのではないかと思います。
死は"瞬間"ではなく、生活の延長線上にある時間軸が"長い"もの
紅谷:暗すぎる今の葬儀をどう回避するかを考えるうえで、時間軸や生活軸がキーワードになると思います。死というものがどんどん狭まっていき、死が瞬間になってしまっている。つまり、時間軸で死が一瞬のものになっているということです。それが、死ぬ前と後の作業というような話につながっていて。亡くなる前を医者が担当して、亡くなった後はお坊さんが担当するというイメージになっているように感じます。
病院では確かに死の瞬間を「死に目」と言って、そこに間に合わなかった家族は、廊下で崩れ落ちて「間に合わなかった」と泣く。でも、死を瞬間と捉えるから間に合わなかっただけだと僕は思っています。
在宅医療をしていると、死に始めから死に終わりまで、2年ほどある方もいて。だから、もう親戚一同、死に目に会っているんです。
病院で人が亡くなるときは、みんなが瞬間にこだわっていて、ぴりぴりするんです。死はもともと生活の延長線上にあったはずなのに、病院で亡くなるのが当たり前になった。死が瞬間化していったと思うんですよね。
でも、本当は物語だと思います。「いつも元気だったおじいちゃん、最近家から出てこないね」「病気になって家で寝ているらしいよ」というあたりから「死ぬのかもしれないね」という話が始まっていたはず。亡くなった後もお葬式や法事があって、もっともっと死は長いものだったと思うんですね。
それが殺風景になり、死ぬ瞬間のことだけを思うと、暗く演出した方が良いものになってしまった。結婚式と対比して、暗い物として演出した方が良いという先入観も手伝って、その瞬間をどう扱うかになった。
どんどん死がピンポイントになったことが、この暗さにつながっているのではないかと思います。だから、お葬式やお坊さんの責任というよりは、医療側にもすごく責任がある。
首藤:看取りを推進することや終末期をどう迎えるかということを、今やっと日本で言える空気になったと思っていて。「はっぴーの家で看取りや葬儀はどうしていますか」と最期について聞かれることもあります。
でも、僕は全然そうじゃないと思っていて。もっと長いスパンだと思っています。だから「良い看取りをしよう」「良い葬儀をしよう」ではなくて、良い日常をつくっていれば結果として「看取りをしたい」「最期お別れ会したい」と自然になってくるんだなって。今の話を聞きながら改めて思いました。
パーティーもお葬式の一つの在り方かもしれない
柚月:亡くなり方によると思うのですが、老衰で亡くなった場合は、パーティーで良いのではないかと思っています。どこかの国の市長さんが亡くなったときに、葬儀パレードのようなことをしていました。車の上にポールが立っていて、50人くらいのポールダンサーが踊っていたんです。お葬式にですよ。
セクシーなお姉ちゃんたちに見送られた市長は、幸せじゃないかと思って。それはその市長の生き様で。多分その人は「わしが死んだらこうしてくれ」みたいなことを言ったんじゃないかな。
死んだらこうしてほしいということを考えておくのも良いんじゃないかと。お祝いをしてもらうために、生きている間みんなと仲良くしておこうという、よこしまな気持ちがあっても別に良いんじゃないかなと思うんです。
首藤:そのことは本質的だと思っていて。例えば、東南アジアでは誰かが亡くなったときにパーティーのようなことをする。しかも、それをフェイスブックやツイッターに投稿するんです。
世界には色んな文化ある。メキシコでは死者の日があって、ハロウィンみたいにある意味お祝いをする。亡くなった方をそのまま置いておいてミーラ化させて、その人にたばこを吸わせたり装飾したりして、一緒に死んだ後も暮らす国もある。みんな楽しそうなんですよね。
ワダケン:世界とのかけ算が面白いなと思っています。いろんなお葬式を知っていきたいですね。
お葬式には、いろんな選択肢があっていい
合田:実際の子どもの事例で、2019年にしたパーティーのようなジージの葬儀後に、親戚のおじさんが亡くなったんですよ。それで葬儀会場に行ったら、子どもが「これが葬儀なん?」と。「あの人誰なん?この人誰なん?」と質問攻めにあいました。
子どもの頃、私は親戚同士の喧嘩やいざこざのあるお葬式しか見たことがなかった。だから、いろんなものをなくした結果、こんなに疎遠になっているということを子どもに説明する(笑)そんなことしかできなくて。
でも、日本本来の葬儀やお焼香の決まりを見せることができて、子どもの大きな学びになったと思いました。ジージの葬儀で真反対のことをした後だったから、どちらも経験するのもありかなと。
首藤:いろんな選択肢があっていい。
前半は現世の人のため、後半は旅立っていく人のための、2部制お葬式は?
鈴木:誰かを亡くしたときの悲しい気持ちに、ふたはできないと思うんです。だから、お葬式を2部制にするのはどうでしょう。前半は白と黒の幕を下ろしたりして、思い切り泣いてもらう。
でも、後半は「ありがとう」の気持ちを中心に、完全にエンタメにして踊ったり歌ったりする。それも一つだと思います。前半は、今現世にいる人のため。後半は、旅立って行く方をみんなで「ありがとう」と見送っていくための時間にして、お葬式を2部制にするのも良いのではないでしょうか。
10人の人生があれば、10通りの見送られ方が必要
小池:今、葬儀の現場にいて、私も自戒の念を込めて言うんですけど「選択肢がない」ことが一番問題だと思うんです。というのは、日本の葬儀会館でする今の定型のお葬式が必要な方もいるんですね。
長野の神宮寺に髙橋卓志さんという私の尊敬しているお坊さんがいらっしゃって。
髙橋さんのところで、ある期間私は学ばせてもらいました。髙橋さんは「選択肢をつくっていくことが大事」とずっとおっしゃっていて。「10人の人生がある。同じ人生はないだろう」と。そうすると「見送られ方も10通りあるべきだろう」と。そう髙橋さんから伺いました。
そのためには、生前どう関わるかにかかっていると思っていて。髙橋さんのお葬式をするお坊さんは、すごく増えてきている。どういう真似をしているかというと、亡くなった方の物語をスライドショーでスクリーンに映し出したり、その人が好きだった音楽をかけたり。テクニック的な話で言うと、それはやろうと思えばできるんです。でも、髙橋さんと根本的に違うのは、生前に深く関わっているかどうかです。
亡くなったときに、はじめましての状態からヒヤリングをして、髙橋さんがつくっておられるようなお葬式をしようとしても、それは間に合わせのものになってしまうんですよね。だから、10通り以上の選択肢をつくるためには、生前どういう人だったかをわかっていることがすごく大事で。私がお寺でたくさんのイベントを行っているのは、生前にいろんな方と縁を持ちたいという強い思いがあるからです。
ジージを知らない人だらけのはっぴーのお葬式
小池:はっぴーの家のお葬式に参加したとき、亡くなった方と関係ない人だらけのお葬式があるんだと、目から鱗でした。
首藤:当日来てくれた2〜300人のうち、そのおじいちゃんのことを知っているのが10人くらいしかいないという異常な状態でしたもんね。
小池:あんなお葬式は、なかなかないと思います。近くに住んでいる少年たちがお焼香をあげたりしていて。
首藤:地域の子が「上で(はっぴーの2階で)何かあるん?」と声をかけてくれて。僕のおばあちゃんが亡くなったときも「上で何かやってるの?」と聞かれて。「僕のおばあちゃん亡くなってん。」と言うと「大変やったな。ちょっとお焼香あげに行くわ」と。日々の関係性があるから、最期出会わせたいなって。ある意味自然なことなんですよね。
お坊さんが生前から患者に関わる
紅谷:うちの福井のクリニックに、常勤スタッフのお坊さんがいるんですね。普段も医者の助手みたいな立ち位置で、一緒に横でカルテを打ったり処方箋を出したりするのを手伝ってくれる。
「死ぬって何ですかね」と患者さんが言ったときに、そのお坊さんがちょっと会話に入ってきたりして。患者さんに仏教的なサポートがほしいとなると、そこからは訪問をしたりしてサポートしていく。そのように生きているところからふわっと入っていくお坊さんがいて。その流れで、最初のお経をあげてほしいといった依頼が入ったこともあります。
結構お坊さんって、患者さんが亡くなった後に登場するイメージがある。でも「本当は生きるに関わりたい」と本人も言っていて。患者さんが生きているときにも関わるということです。そういうグレーゾーンがあって、医療も仏教ももう少し曖昧になっていった方が良いと思います。
実際、本人から「生きているうちに、葬式をしたい」と聞いたこともあります。それで「生きているうちにお葬式をしよう」ということになり、思い出の写真のスライドショーをつくったりしました。そうしたら本人の意見も聞くことができますよね。
ろっけんガールズは、死をどう考える?
ワダケン:リビングのろっけんガールズのご意見を聞きたいというメッセージが届いているので、ご意見を聞いてみましょう。感想はありますか?
フジーさん:「死」って考えてないけど。
シングウリョーさん:思ってないけどね。普段思ってないけど。
首藤:最期どうしたいとかあります?はっぴーの家で、どうしたいとかあります?僕らしますけど。
フジーさん:死ぬまで?毎日楽しく、ここで楽しくしてるからね。考えないね。
ワダケン:それもいいですね。毎日が楽しいから、考えない。
シングウリョーさん:楽しいから。
紅谷:深い、すごい。
首藤:YOKOさん、こんばんは。最期天国に行くときに、どうしてほしいとかありますか。言ってくれたら僕らやるんで。
YOKO:色んな人に会いたいです。亡くなった色んな人たちに。それが願いです。
首藤:それまではどうしたいですか?ここの暮らしで何かしてほしいことはありますか?
YOKO:そうですね。色んな方とお話ししてね、考え方を教えてほしいと思います。
首藤:わかりました。これから覚悟してください。ここにまた子どもとかが乱入してきますからね。予定調和なんて無理ですから。
講師のみなさんや、ろっけんガールズのお話を伺って、私の「お葬式」という言葉の輪郭が、ふわっと広がったような、そんな感覚になりました。
私がはじめて「死」に触れたのは、保育所に通っているときでした。おばあちゃんが亡くなって、家でお葬式をしました。そのとき、周りの大人の悲しそうな顔を見て、小さいながらに、おばあちゃんにもう会えないことを、なんとなく理解していたように思います。
もっともっと、ひとりひとりが自分にとって心地よいお葬式を選べるように。そんな願いが生まれました。
みなさんの、お葬式のイメージは広がりましたか。
書いてくれた人。
田中美奈
1994年生まれ。感動した誰かの考えをいろんな人に届けることと、友だちと過ごす時間がすき。ひとりひとりの幸せに関心がある。放課後等デイサービスでの児童指導員を経て、現在は書く仕事をしている。
手伝った人。
前田彰
1990年兵庫県神戸市出身。大学卒業後、陸上競技の指導者として活動。
現在はPRを中心に多様なプロジェクトに関わっている。
「しらんけど」くらいの距離感と言葉が好きです。しらんけど。