障害を持つ子がいるということ
昼下がりの電車はガラガラだった。心地よい陽射しに半分うたた寝をしていたら、いきなり「ドスン」と衝撃がきた。
私の真隣に中年の大柄な男性が座ったのだった。こんなに空いているのになんで隣に?、勢いよく座るなよ…との思いがよぎる。
私のちょっとしたイラつきはどこ吹く風、男性は全く気づいていない。
少し遅れて、80代前半とおぼしき小柄な女性が男性を追いかけるように横に座った。
「◯◯くん、そんなにドスンと座っちゃだめよ。周りの人がびっくりしちゃうよ。」
どうやら二人は親子で、男性(息子)には知的障害がありそうだった。
「うん。うん。」と生返事をしている息子の意識は既にスマホゲームに向いていた。ずり上がった息子のシャツを直す母の手はシミと皺が目立つ、小さな手だった。
そのやり取りを見て私の気持ちは千々に乱れた。
親だから子の面倒を見るのは当然、という考え方もあるだろう。ほとんどの親は子が進学し就労すれば親のつとめは果たしたと実感するのだろうが、子に障害がある場合はいつ、その義務が終わるのだろう。
この母は息子の歩くペースについて行くのがやっとの様子。近いうちにそれも厳しくなるであろうことが容易に想像できた。
私自身を振り返ると、子を持つことを考えたとき、「もし障害を持って生まれてきたら…」との思いが頭をよぎったのは事実だ。
妊娠後に受けた着床前診断で子の障害がわかり、思い悩む人も多いと聞く。
また、生まれた時には障害はなくても、病気やケガで障害を負う可能性はもちろんある。そもそも健常と障害の境目ってどこなんだ…?
母子のやり取りから、あるがままの生をその人らしく全うするとはどういうことなんだろうな、と逡巡し、答えが出なかった。