自分の言葉をつむぐことは、自分の中にあるものを探し出すこと
「私はずっとさみしかったんだと気がつきました」
小学生の時、自宅の近くで遊ぶ同級生を2階の窓から見下ろしていた景色と、あの時感じたさみしさを、わたしはずっと忘れられなかった。
友だちがほしい。
でも、またさみしいと思うのはいやだ。
という思いは、人との付き合いを苦手にしていった。
わたしはそれを、人見知りだからだと思っていた。
でも、本当は、さみしい思いをしたくないから、人との関わりに距離を置いた。
さみしいという感情は、かっこ悪いと思っていた。自分のキャラじゃないと思っていた。
さみしいと言いたくない。
だからわたしは人見知りになった。
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山田ズーニーさんの文章教室ワークショップの中で、私が書いた「これだけは伝えたいわたし」の自己紹介文。
「これだけは伝えたい自分」をことばにするために、問いのワークを通して自分に潜っていった。
その時間で私が出会ったのは、「さみしさを持った自分」だった。
「さみしさ」って、割と身近にある感情で、改めて表現するものでもないようにも思うけど、私は自分のさみしさを無視したり、違うものにすり替えて生きてきたのではないか?という問いが自分に生まれた。
あの時感じた感情は、本当に怒りだったのか?
あの時の自分の行動は、さみしさを紛らわすためだったんじゃないか?
自分の感情や行動の起点に、「さみしさ」があることにしたら、なんだか心がスッとした。
ただ、この「さみしいを持っているわたし」を他者に紹介する文章を書き始めると、なんだか取り繕った自分になっていく。
書いては消し、書いては消し。書いては消し。
上で書いた文章も、途中で終わっている。
けれど、与えられた時間が30分と決まっていなければ、今も消し続けていたと思う。
自分の中から見つけ出したものを文章にして表現するということは、本当にしんどかった。
これなのか?本当にこれなのか?
書きながら、
さみしさを持った自分だから、いったいなんだろう?と考えたら、つまらないことを書いているようにも思った。
「さみしさを持って、さみしさと一緒に生きてきたわたし」を、わたしが私に気づかせるための文章にも思える。
他者に紹介するようなことだろうか?と。
問いではない疑問がとまらない。
さみしさはかっこ悪いことなのだろうか?
なぜさみしさを私はごまかしてきたのだろうか?
さみしさに気がついた私は、どうしたらいいのだろうか?
さみしさを手放すことはできるのだろうか?
さみしさを手放す必要はあるのだろうか?
問いは今もとまらない。
問いの答えは、まだでない。