応援するってなんだろう
応援するとは、どういうことなのかな。
コルクラボにいると、コルク所属の漫画家さんのことを目にしたり耳にしたり、お会いする機会がある。
先日お邪魔したコルク荘のみなさんや、ふむさん、やじまさんも、コルクラボを通して知った漫画家さんたちだ。
もともと漫画や小説は好きだったけど、本を買ったり、時々開催される原画展に足を運ぶくらいのことしかしていなかった。
「この人を応援しています」というより、「この作家さんが好きです」「この本が好きです」という話し方をしている。
少し前、コルクインディーズが始動記念イベントを行った、2019年の6月ごろから「漫画家さんを応援する」ことについて考えるようになった。
私は「ただの会社員」で、編集者でもコンテンツやエンターテイメントに関わっている人でもない。インフルエンサーでもないしライターでもない。
まぁ、「普通の人」なんだ。
コルクラボのメンバーだけど、コルクの人間ではない。コルクインディーズ所属の作家さんのことは、佐渡島さんやコルクが発信しているから知った。
コルクに関わる作家さんだから、応援する。そんなスタートだった。
私の中で「ファンになる」ということは、強烈な影響をうけたとか、自分の人生においてかかせない存在であるとか、替えが聞かない存在であるから「特別なもの」として扱って、応援することなんだと思っていた。
ライブに行ったり、CDを買ったりして「ファン活動を楽しむ」。
でもアーティストなどの対象が、ファンである私を個別に認識することはないことが常識だった。
縁あって、時々お話しをしたり、SNSで会話ができるアーティストの方もいるけれど、それはとても稀なことだと認識している。
だいたいは、勝手に好きになって、勝手に応援しているものなんだ。
ファンであるとは、なんて考えないし、マナーを守っていれば、だいたい無責任でいいことなんだと思っていた。
コルクインディーズの作家さんは、存在が近い。
もちろん、まだ新人であるからかもしれないけど、とにかく近い。
近くて、とまどう。
作品の感想を伝える事を私はまだまだ不得意だし、好きと感じる沸点がたぶん高くて狭い。だから、近くにいても好きにならないとするっと流してしまう自分をを自覚している。決して広くはない視野で物事を見ているし、こだわりだけは妙に強い。自分のドライ感は、応援する姿勢にはむかないんじゃないかと思うこともよくある。
そんな私が「応援できること」なんてあるんだろうか? と考える。
TwitterでつぶやいたりRTしたりはもちろんできるけど、それ以上のことって、考えてもできないんじゃないかって、思うのは、ただ「応援したい」という純粋な気持ちだけでなく、邪さを自覚しているからだろうか?
私の「応援する」の裏に、「あわよくば」が潜んでいる。
あわよくばの内容はご想像してもらうことで、今は自分を保ちたい。
純粋に好きになる、好きでいる、その経験があるからわかる。
コルクインディーズの作家さんを見ている自分が、今まで好きでいたアーティストや作家や作品とは、関わり方が全然ちがっている。
「会える」「話せる」「認識されている」って、「ファン」としては特別すぎる。
いや、そもそも私は「ファン」なのか?
「ファン」というより、知人なのだろうか。
佐渡島さんが育てる作家であれば、自分が何もしなくても、応援したいという人は自ずと増えていくんじゃないかもと思う。
作家の名前が知られていなくても、作品が面白ければ広がっていく時代でもあるんだと思う。
作品が広がるきっかけを作ることが、応援することの最終目標なのだろうか?
うーん。
「漫画家を応援したい」なんて格好いい風なことを、できるように言ってはみたけれど、ただの自己満足なのかなぁ。
まぁ、ファンなんて、自己満足があるから続けているんだけど。
「応援する」ってどういうことなんだろう。
頑張れって声をかけること。いいねすること。イベントに参加すること。作品を買うこと。感想を伝えること。
そんな当たり前のことしがでてこないけど、こんなものなんだろうか?
わからない。
あぁそうか。
人生が救われる経験だけが、ファンになる理由ではないんだなぁ。
今までファンになった人が、自分の人生を救ってくれた人ばかりだったから、なんかハードル上げまくっていたってことを、最後に記して終わろう。
そもそも、好きであることとファンであることイコールなのか?
その疑問もまたいつか。