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ポルノによって失われつつある性愛

 今回の記事は、自分は依存症と言われるほどポルノに触れていないから大丈夫だろうと思っていた男がポルノの性について語るものになっています。  年齢・性別問わず、ポルノを見ていてこれでいいのかと感じている方にはぜひ見てほしいと感じています。お気分悪くしたら申し訳ないです。


 



はじめに


 
ポルノを見ることの弊害はすごく感じる。動画を見た次の日の無気力はたとえようもない。常に思考停止している状態で、普段行っていることはもちろん、新しく何かに挑戦してみようとの気力など起こるはずもない。


ポルノを視聴し終えた後の虚しさも大きくて、果たして自分は何をしていいるのだろう、また快楽にあらがえずやってしまった…と肯定的な感情が起こることはやっぱりないわけで。一番恐ろしいのは、視聴している間はそうしたポルノに対する後悔などが全部取っ払われてしまう点だと思います。ポルノに自分が支配されているというか、最大の快楽を前に自分を止められるものは何もない…という状況でしょうか。

 
こうした自己嫌悪と無気力さが視聴した後に自分を襲ってきて、この倦怠を解消するにはあの快楽しかないと考えてしまうわけです。こうしてまたポルノに手を出して同じことを繰り返していく。こんな生活だれも望んでいないでしょう。


ここまで読んでみて、お前はポルノ依存症なのかと思う人もいるでしょう。自己評価になりますが、自分はいかに定義されているような依存症ではないと思います。


問題のあるインターネットポルノグラフィー閲覧とは、当事者にとって個人的、社会的に問題を引き起こす(他のことに比してポルノ視聴の時間が過多になることを含む)インターネットポルノ視聴を指す。当事者は時に自身の過多なポルノグラフィー閲覧の帰結として、抑うつ、社会的孤立、キャリアの喪失、生産性の低下、経済的問題など、自身の社会生活が阻害されていると報告する。

ポルノグラフィー依存症 - Wikipedia

また自分は以下のNHKの記事で取り上げられている方のような重度の弊害を抱えているというわけでもない。

 広がる“ポルノ依存” なぜ?抜け出すためのヒントは?「リスク」と「防ぐために大切なこと」 | NHK | WEB特集 | 医療・健康

私は大学に通い、友達もいて、休日には遊びにも行く。その点皆さんと変わりない一人の男性の生活を過ごしていると思います。ただポルノを視聴することによって目の前のことに取り組むのに腰が重いな面倒だなと感じることはすごくありますけどね。


自分の日常性格を送るうえで経済的不足や社会的孤立を抱えているわけではないけど、やっぱりポルノを視聴すると記事の最初に書いたような感覚を覚えます。最近は視聴しないように努めていますが、定期的に見ていた時は、週1,2ぐらいの頻度でいま読んでいる方とそんなに変わらないものだと思っています。


ポルノの弊害


私がポルノをみてしまうタイミングは主に二つ。

  • 暇なとき

    • 暇だなと思ってスマホを見る。スクロールしていくうちに肌の露出が多い画像などが目に映る。そうなると性のスイッチが入ってだんだん過激な写真や動画を見てしまう…。

  • 疲れているとき

    • 疲れて休憩したいと感じる時、癒しや快楽を求めたくなる。気持ちいことと言えば、という理由でそういう類に手を出してしまうのがよくあるパターンとなっていた。


ポルノの手軽さ、いつでもどこでもポルノを視聴できるツールがあること、なおかつ無料でアクセスできてしまうのは、ポルノ視聴の大きな要因だと思っています。


加えてポルノによって自分の性に関する観念も大きく影響されていると思います。

一番の特徴は女性を性の対象として記号化していることではないでしょうか。JK,JD,OL、清楚,ギャル,ヤリマン、貧乳,巨乳、などなど。目の前に映っている女性が誰なのかを気に留めるのではなくて、その人の属性しか注目していない。

バンクシ―の作品で「Bacchus At The Seaside」(バッカス・アット・ザ・シーサイド)というのを見たことある人はいるでしょうか。海辺で裸の男女が立っているのですが、二人の顔は切り取られているといった絵です(ぜひ調べてみてください)。

この絵を見て女性あるいは男性を性の対象として消費している社会のことを描いたのかなと感じました。裸の人、自分が性的興奮を覚えれば誰でもいいと。動画を見て自分は無意識にこうしたことを行っていたというわけです。


次に島本理央の『ファーストラヴ』を引用します。アジアで児童売春をしていた父親。主人公の由紀がその父親から受けた視線をおぞましいものと形容していました。

 「今でも記憶に残っています。子供のころ、父が帰ると同時に部屋に逃げ込んだことを。自分でもどうしてだか分からないけれど、朝が来るまでずっと頭まで布団をかぶってやり過ごしていました。お風呂なんかも、小学校の高学年くらいからは脱衣所で服を脱ぐときには電気を消していました。一度だけ父がドアを開けたことがあって、その時は全裸ではなくて下着姿でしたけど、謝るわけでもなく、驚くわけでもなく、闇にまぎれた私を見て、電気くらい付けなさい、と言い残して、またドアを閉めたんです」
 「それは……純粋に気まずかったとかでは、ないんですよね」
 遠慮がちに質問してきた辻さんに対して、注意深く言葉を返す。
 「違いますね。今思い出しても」
 闇の中、感じていた。さらした肌のぜんぶで。
 廊下の逆光で陰った父親の表情、眼差しを。
 電気ぐらい、と言い出すまでのわずかな、それでも奇妙に長すぎる数秒間の沈黙を。

島本理央『ファーストラヴ』新潮社,2020 p188~189

由紀は愛を尊重と尊敬のこもったものだと後に語ります。父親の視線は目の前の性的なものを見据えるもの、尊敬や尊重のない暗闇が広がるものだったのだろうと感じます。

 
ポルノの視聴の際、まさしくこのような目になっているのでしょう。目の前の性的興奮を求めるだけの行動は、まさしく本能的なもの、人間本来の者とはかけ離れているのかもしれません。

他にも朝井リョウ『正欲』にもこのような視点が書かれています。神戸八重子のお兄さんもポルノを視聴していました。その事実を知った、正確にはポルノを見る男の視点に気付いた八重子は男性不信になります。これを引用してしまうと本当に長くなってしまうのでぜひ見てみてください。


ただしい性愛のありかた


ポルノなどに代表される性消費には否定的でと言いたい。では性はどのようにあるべきなのでしょうか。

オナニーやセックスをやめろだなんて私には言えません。自分の性欲求を否定することはあってはならないと思います。よくある勘違いとしてポルノ禁=性衝動を抑えることとされますがそれはダメ。したいときはするべき。大切なのはどう向き合うか。

性は心と密接であるべきだと私は思います。決して身体の気持ちよさだけに囚われてはいけない。

オナニーであれば、好きな子と一緒にいたい、めちゃくちゃにしてやりたい、彼氏/彼女が欲しい。身体のさまざまなところをまさぐってふつふつと自分の欲望を波立たせていく。普段の生活で人に見せられない一面を爆発的に解放していく。ある種心のケア的なもの。

セックスであれば、相手に触れたい、相手と気持ちよくなりたい。セックスは普段の会話やお出かけと一緒でコミュニケーションの一つ。相手の声、吐息、身体の反応を観察して、求めていることを行う。自分だけでなくて相手と一緒に快楽を追求していく。その一つ一つの動作に愛を感じるものだと思います。

ポルノは性衝動を外から誘発するものと言えるのに対し、性衝動を内側から湧き上げていくのが本来の性欲の向き合い方なのかなと。

 
最近は本を読んでするようになってきました。 
濡れ場が描かれている作品でも、ただ性描写が羅列されているのではなくて、登場人物の相手を思う気持ちが一連の動作に現れていて…。三島由紀夫『春の雪』なんかすごいですよ。

 もう今後あえなくなる初恋の人と男は密会することになった。互いに好きなのはわかっていたけれど、男が素直に自分を選ばなかったのを女はわかっていた。最初は拒絶していたのだけど、愛撫される内にだんだん気持ちが抑えられなくなって。熱烈な接吻を交わし女は畳に押し倒される。着物を脱がされる間の紅に染まる女の表情、それは無言に交わされる男との行為の承諾。雪のように真っ白な双丘が露になり、芳醇漂う女の香りに男は酔ひ心地になる…。

三島由紀夫『春の雪』新潮社 ,2019 p,228~p,237 27章参照  

他にもね、三浦哲郎『忍ぶ川』も本当にすごい。互いを求めあう男女の接吻。目が合った瞬間、二人を隔てる空間に熱を帯びるのを感じる。磁石の如く唇と唇が引き寄せた…。

もう一個だけ、芥川龍之介『好色』から。

 平中は侍従を引き寄せながら、こうその耳に囁こうとした。が、いくら気を急いても、舌は上顎に引きついたまま、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に緩暖い肌の匂は、無意識に彼を包んで来る。……と思うと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかった。
 一瞬間、……その一瞬間が過ぎてしまえば、彼らは必ず愛欲の嵐に、雨の音にも、空焚きの匂も、本院の大臣も、女の童も忘却してしまったに相違ない。しかしこの際どい刹那に、侍従は半ば身を起こすと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しそうな声を出した。
 「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、掛け金が下しておりませんから、あれをかけてみて参ります」
 平中はただ頷いた。侍従は二人の褥の上に、匂の好い暖みを残したまま、そっと其処を立って行った。

芥川龍之介『羅生門・鼻』新潮社,2018 p183,184

 
こんな官能漂う雰囲気に包まれたなら。ああもう本当にしたくなる。すごく今、自分の性要求に波風が立つのを感じる。

感覚としては性描写そのものよりも、その奥にある登場人物の感覚によって自分の欲が引き立てられているような感じ。自分もこんな恋をしたい、愛する人を求めたい、包まれたいといった潜在的なものが呼び起こされるといえばいいでしょうかね。

そうした欲求はみなさんにもあると思います。いやないといけない。求めたいという思いがなかったら、性欲とは何なのかを考え直す必要があり、なおかつ3大欲求の1つとして数えられていないでしょう。

もちろん、何に対して性的嗜好を抱くかは別問題です。異性、同性、両性を求める者。それは個人の問題であり、他人がとやかく言うものではない。

 

ポルノ断ちするには?


ポルノ視聴の際、脳内に放出されるドーパミンは相当なものであると。

ポルノと薬物中毒のもう 1 つの共通点は、脳への影響です。 MRI研究によると、報酬と快楽を扱う脳の部分である腹側線条体は、ポルノと薬物の両方に熱心に反応する。これは、ポルノを見ると麻薬を摂取するのと同じ脳活動を引き起こす可能性があることを意味します。実際、私たちの脳がこれら 2 つの刺激を実際には区別していないのは非常に興味深いことです。

ポルノ中毒と薬物中毒:類似点と相違点

ポルノを見ることで、薬物と同じぐらいのドーパミン量が放出されている可能性があるということです。つまりそれほど強烈な性的要素が含まれているということだと思います。事実、私がポルノを視聴していた際、自分のモノの大きさや硬さといった勃ちようはすさまじかったと思います。

脳への影響もあるでしょう。最初に言及した無気力や集中力低下が誘発されて、一部の研究では脳が縮小するそうです。これについてもなんとなく心当たりがあって、ポルノを見終えた際、自分の脳(特に右脳)が普段と比べて小さいように思えます。本当に。本での自慰と比べて明らかに小さいと感じます(個人の感想です。けどこれは間違っていないと思う。)

それでどうやってポルノ断ちをするかについてですが、わかりません。答えになっていないと思いますが、見ない者勝ちだとしか言えない。
私だって専門家でないから、ポルノ断ちの最適解を知っているわけでもない。わからないなりに色々試してやっている最中です。


ちなみに快感を我慢するというのは無理でした。修行僧のごとく、肉欲自体を消滅させようと最初は思っていたのですが、むりです。なぜなら、コカインと同じぐらいの快感を知ってしまったわけですよ。頑張れば堪えられるといった次元の話ではもうなくなっていると思います。辛いだけです。

まずは、自分がポルノにのめりこんでいるのだと自覚するところからだと思います。私もそうでしたが、自分は大丈夫、悪影響は受けていないはずだと当初は考えていました。


けれどそのくせ視聴するたびに虚しさを覚えたり、集中力が低下するなどそれなりの弊害はあったわけです。私は留学を目指して英語の勉強をしているのですが、視聴してしまった次の日とか、本当に頭に内容が入ってこないんです。

また普段の生活で恋愛したいなと感じることがあるんですが、それを視聴している際に思い出して、実際の女の子と触れ合いたいと考えているのにどうして女性を性の記号として消費しているんだろうと思いました。

これまでは文字でしか認識していなかったポルノ視聴による弊害が実感となって私の胸に落ちてきたんです。それに最近は空いている時間も増えてきて、ここでやめないと前に進めない、最悪オナ猿になると感じました。

そうした経緯でポルノ断ちをしようと思い立ちました。今はnoteを書いたり、ランニングを再開したりとポルノに費やしていたエネルギーを別の形で使うようにしています。

もちろんしたいときはあります。前にも言いましたが、ポルノ禁=自慰をするなというわけではありません。したいときはしています。その際には自分の心の動きに注目してます。彼女が欲しい、気になるあのひとをめちゃくちゃにしたい、昔の恋愛を思い出して性衝動を高めていったり、読書をして登場人物の欲に共感したり、官能的な雰囲気を感じた時なんかはしています。なので頭の中の想像が主ですね。

別に純粋な想像でなくてもいいと思います。綺麗なあの人と致したい、求めたいといったドロドロした欲望でも。人の欲なんて本来醜いものですから。大事なのは自分の感覚に忠実になることです。

性は心と密接ですから。普段人には見せられない一面を解放しよう。身体の気持ちよさでなくて、自分の潜在的な想いを爆発させるのは充足感があるよ。また自分を見つめなおすことにもなるから、快感だけに囚われてはならない。

 

おわりに


自分の心や相手との関係性を確認する点で性欲は非常に重要なんだろうと今回記事を書いていてそう考えるようになりました。身体の気持ちよさだけ求める点で人と話すことが忌避されるのでしょう。けれど性欲が日常や自分の心に密接なものだと認識するようになったら?恥じらうことなく自分の生き方として性欲に向き合うのは不可欠なのかもしれません。

 

 

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