二十年間ありがとう。そしてさようなら。
愛猫がお星さまになりました。
長い間一緒に人生を歩んできましたが、ついにその日が来ました。
優しく、そして泰然自若としていて寝てばかりの子でしたが、不思議とその様子が力強い生の躍動を感じさせてくれる、まさしく生きた仏様のような存在でした。生前からこの世を去っても絶対に神様、仏様になるんだろうなあと思っていました。多分実際にそうなったのでしょうね。
死は自然の摂理、更に二十年も生きたのでほぼ猫の寿命、これ以上ないくらい生きてくれました。
彼は私の知らぬ間にうちに来ました。私が学校へ行っている間に家族がもらってきた子で、うちへ来た初日にテニスボール転がして遊んでいた姿は今でも鮮明に覚えています。初めは長生きできますようにと願いを込めて、大往生した曾祖父さんの名前をつけて呼んでいたのですが、ぶちねこだったのでいつからか私は彼を「うしさん」の愛称で呼んでいました。うしさんは中々良い猫で、いや猫らしくない猫で、大人しくて滅多に鳴きません。誰が来ても逃げたりしないし、親戚が触りに来ても堂々として全く嫌がる素振りが有りませんでした。抱っこしてもされるがまま、何をされてもされるがまま、全てを受け入れる達観した子でした。初め痩せていたのも食べるのが大好きで、そのうち太ってふっくらしてきて、でもその姿も愛嬌がありました。ある日、うちに新しい子猫が来た時、この子は雄でおっぱいなんて出ないのに一生懸命おっぱいをあげてお世話していました。その後猫が増えても喧嘩なんて全然しないし、優しく皆を包みこんでいました。猫が増えると他の猫は相性が悪くて一生喧嘩し合う猫も居るのですが、この子だけは誰とも仲良くなれていました。私はそんなうしさんを見て、こんな風な人になれたらなと思いました。尊敬する人は?と聞かれたら(人じゃないけど)私はずっとうしさんと答えています。
うしさんという名前はぶち=牛柄で肥えた様がホルスタインみたいだから、という理由だった様に思うのですが、今思えばこういう優しいのんびりした性格が牛っぽかったのもあるんだろうと思います。
さて、月日は経って猫が増え、6匹になっていました。その中には私が大切にしていた虎柄のまだ若い女の子の猫がいました。名前は「ちびはな」。先住猫で虎柄の子が「はな」だったので小さい「はな」で「ちびはな」です。元々一時預かるつもりで愛着つかないよう適当な名前にしたつもりが、名実ともに立派にうちの猫になってました。名前もそのうち「ぢな」とか「んちゃん」になってしまってました。我ながら不思議な愛称ですね。呼んだら直ぐにきて、また尻尾の付け根をぽんぽん叩かれるのが好きな子で、叩き終えるとくるんと一回りするおちゃめな子でした。可愛かったんです。とても。
そんな幸せな月日が数年続きました。この日々は当たり前で、最早日常なので幸せとも思ってなかった。でもある日、んちゃんの体調が悪そうなので母が動物病院に連れていきました。帰ってきて、「白血病。治らないんだって」と言いました。幸せな日々が、永遠に続く、そんな幻想があっけなく、粉々に粉砕された瞬間でした。なんでこの子が、と思いました。テレビで流れる不治の病を患った人が「なんで私が」、とか「なんでこの子が」とかショックを受けるシーン、あんなの自分には起きないと思っていました。なのでそんなこと本当にあるのかと凄くショックでした。神様に嘲笑われているような気もしました。でも大切な人の死というのをまだ経験してなくて、んちゃんも別に直ぐに死ぬわけでもないし、多分この時も「死」というものをよくわかっていなかったんだと思います。
でもその日は、やはり無遠慮に、突然やってきました。学校から帰ってくると、母が庭に泣きながら穴を掘っていました。「んちゃん死んじゃった」と声を震わせていました。私はその時確かに衝撃を受けました。でもその時ですら、私は死というものをよくわかっていませんでした。遺体を見ても、「獣みたいだな」と丁度山道で車に轢かれで死んだ狸でも見たような、そんな感情しかありませんでした。
翌朝、その穴にその子を埋める時が来ました。その時になって私は漸く気づきました。あ、これで終わりなんだ、と。もう本当に終わってしまったんだ、もう二度とこの子にナデナデしてあげられないんだ、お尻をぽんぽんしてあげて、喜ぶ顔を見れる日は未来永劫来ないのだと。その時私は初めて「死」を理解しました。すると涙が止まらなくなってしまいました。その日、都会には珍しく雪が降っていました。寒かったです。私はなんとか学校まで辿り着きましたが、とても授業を受けられる状態ではありませんでした。先生に猫が死んじゃって辛いと言って早退させてもらいました。学校からの帰り道、山の上の神社で呆然と、街を白く染める雪を見ながらまだ若かったのに不治の病でお星様になってしまった、大切な猫のことを思っていました。
家についたら涙が止まらなくて、泣きながらその子にお手紙を書きました。もっと色々やってあげたかった事がありました。もっともっと大切に、もっとこの子が喜ぶことをして上げられたのにできなかった、そう思うと涙が止まらずずっと心でもっと色々してあげられなくてごめんねと連呼していました。
そんな時、心配して来てくれたのがうしさんでした。私はうしさんにお話をたくさん聞いてもらって、うしさんの胸の中で何度も泣きました。その時も本当に優しく、暖かく慰めてくれました。今でもぢなが死んでしまったことは辛く、今書いているだけでも涙がでます。それでも立ち直ることができたのはうしさんの優しさのおかげでした。うしさんは本当に可愛くて優しくて私の自慢の子、そして恩人です。
そんなうしさんは元々便秘気味だったのですが、晩年は偶に鼻血を出していました。ただそれ以外は中々の健康体で獣医さんにも褒められる位でした。私は就職で実家を出て、ちょくちょく帰っていたとは言え、数年この子から離れていました。気づけばもう齢十九とかで、猫としてはいつ何があってもおかしくない年齢になっていました。事あるごとにラインで母にうしさんが元気か聞いていたのですが、歳も歳です。前になぢには何もしてあげられず後悔した経験もあります。このままで良いのかと自問自答していました。仕事自体も就活で苦戦し、やっとのことで内定を得た一社でした。好きな仕事を選べたわけではないですが、当初はこれも御縁だと思って一生懸命やろうと頑張っていました。でも、自分は本当に自分の大切な時間をこの仕事に費やしたかったのか、命を燃やしてこの会社に尽くすことに本当に同意しているのだろうかと疑問に思いながらも特にやりたいことも見いだせず悶々としていました。
そんな折に、私にもやっとやりたいことができました。今の仕事をやめ、新たな挑戦をするのはとても勇気の要る決断でした。でも、今ここで決断しなければ、絶対に後悔すると思っていました。ここで仕事を続けることを選ぶということは、金のため、安定した社会的立場のために私が新たな挑戦を挑戦もせずに諦めると同時に、うしさんのもしかすると最期かも知れない期間に今まで散々お世話になったうしさんに何の恩返しもしないことを意味するからです。私は新たなことに挑戦したいという思いも勿論あり現在進行系で頑張っていますが、うしさんに対する思いも相当強かったようにも思います。うしさんに対する愛以上のものはない、それが私がぢなから学ばさせていただいた大切な教訓でもあり、ここでうしさんを選ばないのはぢなに対しても申し訳が立たないと思いました。
そして私は仕事を辞め、実家に帰って夢を追う決断をしました。この決断のお陰でうしさんと最期の一年はずっと一緒にいられました。仕事を辞めたのはうしさんのためだけではなかったですが、私は生涯この決断を誇りに思います。私は、自分の一番大切なことは何かを見誤りませんでした。うしさんと最期の一年間、ずっと一緒にいられて本当に良かった。途中までは元気でしたが、便秘が酷くなりうんちが出なくて食欲がなくなりました。更に鼻血はどうやら悪い腫瘍のようで、明らかに異常な量の鼻水や鼻血が出ていました。具合が悪くなってからはどんどん衰弱していきました。その様子を見るのは悲しかったし、今でも可哀想だと思います。それでも知らない間に死んでしまって電話一本もらうだけなんかより何倍も、何十倍も良かった。一緒にお昼寝したり、お布団で夜一緒に寝たり、大好物のお刺身をあげたり、たくさん名前を呼んでナデナデしてあげられました。
本当に最期の数日、もう立つこともできなくなってしまい、あれだけ大好きだったご飯も全く食べられなくなってしまいました。あと数日も保たないというのは獣医さんでなくてもわかりました。まだお星さまになってないのに泣いてしまいました。でも、まだ一つやってあげられてないことがあるのに気づきました。それはたくさんの大切な思い出をくれたこと、自分が悲しみの底に沈んで浮かび上がれなくなっていたとき、話を聞いてそして慰めてくれたこと、そうした二十年分の感謝の言葉を言ってなかったのです。なぢには生きている間には感謝の言葉を言えず、とても後悔しました。だからそのことに気づいて直ぐ「今までありがとう」を伝える事ができました。うしさんが生きている内にちゃんと「ありがとう」を言えたのです。うしさんからも、「ありがとう」ってお返事してくれた気がしました。
終わってみれば、ここまでしても悔いは残りました。もっとやれることがあった、もっと優しくしてあげられることがたくさんあった、そういう後悔はやはりあります。それでも自分ができる精一杯のことはしてあげられたし、何より自分がこの二十年間幸せだったことがうしさんにきちんと伝わったと思うし、私もうしさんが私と同じように幸せな猫生を生きられたとちゃんとわかりました。
今はまだ、とても悲しいです。うしさんが当初の願いの通り、曾祖父さまのご加護もあったのかほぼ猫の寿命の限界である二十年も生きました。そしてその二十年間は幸せな日々だったことがわかっても、大好きなうしさんともう二度と会えないのは本当に辛い。でも、これはハッピーエンドなんです。なぢの時と同じ失敗はしませんでした。なぢちゃんは、本当に本当に大事なことを教えてくれました。そしてうしさんも、同じ様にとてもとても大切なものを私にたくさん教えてくれました。
うしさん。改めて二十年もの長い間本当にありがとう。さようならは、言いたくなかったけど、頑張って言います。
さようなら。天国でもうしさんがずーっと幸せでありますように。