【短編小説】母と逃避行

 

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 出ていってやるという母の言葉を僕は今まで何度聞いてきただろうか。だいたい夜中十時ごろ、母の金切り声が聞こえてくる。ただ黙りこくってしかめ面をしつつも、ずっと日経新聞から目を離さずにいる父に向かって、母はいつも吐き捨てるように、その少ない語彙で罵声を浴びせていた。いつだって母はその瞬間、本気で父を陥れようとしていた。全力で父を傷つけようとしていた。そうして、なかば無理やり幼い僕の腕をつかみ、嵐のように、狭い家の廊下を走り去る。自身の存在や感情を父に向かって主張するように、玄関のドアを乱暴に閉める。手をつないで、涼風に吹かれながら走っていって、僕はいつも「銀河鉄道の夜」の一節みたいだと思っていた。ビル灯りのせいでほとんど星は見えないし、銀河ステーションも、煌めく蠍の星も、どこにも見当たらないけれど、それでも、ただ夜空の下にいるというだけで、どこに行くにも冒険になるような気がしていた。
 けれども、そんな物語の触りのような高揚感は、ほんの一瞬にして消えてしまう。そうして、その後で向かうのは、決まって団地の二階上に住んでいる祖父母の家だった。祖父母の家の窓から見える夜景は、僕の家から見たものとほとんど変わらない。屋根の下に入ってしまえば、夜空はその効力を失ってしまうようだった。
 母が帰ってこなくなった今なら分かる。僕はきっと、そんな母のことをどこか冷ややかな目で見ていたのだ。すぐに癇癪を起して家を飛び出そうとするときも、祖母の膝の上でどこまでも自身を削って泣きじゃくっているときも、次の日には目を腫らしながら変わらない朝食を三人分用意しているときも。結局、どこにも行けなかったときも。
 そういえば、病院食というものを食べたことがない。どこまでも元気な自分が、それだけで、どこまでも価値のない存在に思える。木偶の坊という言葉を考えた人は、究極に美人薄命だったのかもしれない。

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 僕はその日、大学のゼミの女の子を、一人暮らしのアパートに連れ込んで寝た。ゼミのメンバー数人で飲みに行き、帰りは彼女と二人だった。家にたどり着き、ベッドに入ると、ごく自然に服を脱がせ合った。始まりから終わりまで、通過する義務がある儀式のような、性的ではないセックスだった。あるいはそう思ったのは僕だけだったのかもしれない。なにしろその日が初めてのセックスで、感傷が入り込む余地もないくらい、それは一瞬で終わりを迎えたのだ。そうして情事が終わった後も、僕たちはさまざまなことを話し合っていたのだけれど、彼女は僕がなにかを言うたびに「物知りだね」と言って僕のことを褒めた。好きな小説の話をし、ヘミングウェイの話をし、夏目漱石の話をすると、彼女は知らないと言って、僕の話に必死に耳を傾けていた。けれども話していくうちに、僕はほとほと彼女の無知さに呆れてきて、「わりと一般常識じゃない?」となかば冗談めいた口調で、愛想笑いを浮かべながら言ったのだけれど、彼女は「違うよ。〇〇くんが物知りなんだよ。」と言った。そのときの彼女はきっと笑っていたように思う。
 それから大学生になりたての頃に一か月留学していたことも話した。彼女はすごいと言って、そこでも僕のことをしきりに褒めた。彼女には留学経験がなかった。(彼女は文学部の日本文学科に所属していて、僕は英文学科だった。日本文学科には基本的に留学を支援するシステムは無かった。)それもあって彼女はどんなスポットが楽しかったか、美味しいご飯はなにか、向こうに今でも連絡を取る友達はいるかなどを聞いてきた。彼女にとって海外で暮らすということは、想像もつかないような鮮烈な体験であるようだった。けれども僕はその答えのほとんどを適当にはぐらかした。事実、留学の期間中は、観光よりも勉強の比重のほうが圧倒的に大きかったのだ。ろくに観光地を巡った記憶もないし、現地の食事も肌に合わなかった。そんなことを曖昧な言葉ではぐらかしながら彼女に伝え、「そもそも留学は、勉強のために行くものだからね。」とこれまた冗談めかして呟くと、「へえ、そうなんだ。」と言った。そのときの彼女もきっと笑っていたように思う。
 彼女が眠りについた後で、僕はひとりでベランダに出て煙草を吸った。勢いよく吸い込むと、不味い煙草に激しく咽せた。近くのコンビニで買った酒も口に含むと、わけも分からず吐瀉物の匂いがした。
 いったい僕は何になりたいのだろうか。
 開けっ放しになっている窓の内側から彼女の寝息が微かに聞こえてきた。なにもかもが、消化不良のように、停滞した夜だった。

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 父と母が正式に離婚したのは、今から約一年前のことになる。それは僕が大学受験に失敗して、第三志望の文系私大に入学したものの、いったいこれからどうすればいいのかも分からずに、なかば無理やり光明を見出そうとするかのように、大学の提携校への留学を決めてからしばらく経ったころのことだった。そして、実際にその手続きがすべて終了したのは、ちょうど僕が留学から帰ってきたころだった。僕は大学に入ってすぐの夏休みに一か月間の短期留学をした。けれども父の話によると、僕が留学して、現地にホームステイをしていたころには、すでにその話は限りなく決定に向かっていたらしい。それを知らなかったのは、家族のなかで僕だけだった。とはいっても、それは単に、夫婦間の問題を、出来るだけ最後まで僕に悟らせまいとしていただけなのかもしれない。僕は彼らの一人息子で、離婚するかどうかはあくまで彼らのなかでの問題なのだということだろう。僕がそのことに対して口を挟む余地はなかった。気が付けば、その契りは限りなくスムーズに進んでいたのだ。
「年齢なんて関係ないだろ。僕のほうが母さんよりも、もっと広い世界を知ってる。」
そんな言葉が僕の脳裏で常に反響しているような気がする。僕は常日頃から、そういう種類の言葉を、母が父にぶつけるように、母に向かってぶつけていた。浅瀬の水を掬っただけで河川のすべてを綺麗と評するような、そんな母の言葉が嫌いで、僕も自身を削るように反駁していた。けれども、いつからだろう。そんな言葉が僕のなかで呪縛となり始めたのは。大学受験の勉強が思ったよりも順調に進まず、高校三年生の十一月になっても、模試の成績が伸び悩んでいたときからかもしれない。国語が出来なかった。いくら考えても正しい答えにはたどり着けなかった。実際に僕と母親は、成績のことで一度大喧嘩したのだ。母は純粋に僕のことを心配して、僕の普段の生活態度から治すように言ってくれたのかもしれないけれど、僕としては大学に進学したこともない母から勉強について言われるのが、単純に煩わしかったのだ。
 母は高校卒業後、大学には進学せず、市内にある医療事務の専門学校に入学した。そしてそこで二年間学んだ後で、近所の総合病院に就職した。多数の診療科が設置された正真正銘の総合病院ではあったけれども、外観が古く、サービスが行き届いているわけでもなかったので、地域でも人気の病院とは言い難かった。母はそこで初めての社会人生活を経験し、けれども三年後には父と出会って結婚した。結婚したころにはもう僕が母の胎内に宿っていた。だから実際に社会人として働いていたのはわずか三年だけのことになる。母はそのままその総合病院を退職し、それから専業主婦として家庭を支え続けていた。
「あんた、何言ってんの。わたしたちの目は、どこまでも遠くまで見渡せる望遠鏡なんかじゃないでしょ。世界なんて、個人の視力の範囲でしか広がってないの。」
それが僕の覚えている限りで、一番知的な母の言葉だった。それは、どこまでも実生活に根付いた考察から、長い時間をかけて紡ぎだされた言葉で、だから僕はいつまで経っても母のことが好きになれない。
 僕はまた、連日、祖母の膝の上で泣きじゃくっていた母のことを思い出す。そんなことももう、当たり前のように、二度と起こり得ないことなのだ。僕は母がかつて勤めていた総合病院に来ていた。母は約半年前からそこで入院している。

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 昼の一時から面会の約束があると、受付に立っている若い女性事務員に声をかけると、彼女は母が入院している病棟に連絡を取ってくれた。それは無駄の無い、どこまでもてきぱきとした動作だった。常日頃から口にしているであろう淀みない口調で、要件を迅速に電話で伝えていた。それから僕は、病棟に上がってナースステーションに声をかけるようにと指示された。彼女は丁度僕と同い年くらいだ。あるいは僕よりも若いかもしれない。彼女のほうが、僕よりももっと多くのことを知っているのだろうか。
 ナースステーションにいる看護師に案内されて、僕は母が入院している病室に通された。母がいる病室は、六人部屋の大部屋だった。空床ばかりのがらんとした部屋で、その一番入り口から遠いベッドで、母は横たわって本を読んでいた。
「よく来たね」
僕のことを見つけた瞬間、母は読んでいた小説から顔を上げて、か細い声で呟く。どうしてそんなことを言うのだろうと思う。そんな柔和な雰囲気が、まるで母という一介のフィルターを通して見ただけの別人から出てくるものみたいだった。ふと見てみると、母の手元にはヘミングウェイの「老人と海」が置いてあった。いったい誰が差し入れたのだろうか。僕はそんなことをしばらく考えていたけれど、結局分からなかった。けれども数秒経った後の母の発言で、すぐにその答えが分かった。
「父さんがさっき来たよ。不機嫌そうな顔して、なんも喋らないで帰ってった。ほんと、なに考えてんだか。」
僕は母のその言葉に何と答えていいのか分からずに、曖昧な表情でそのまま黙っていた。母もまったく手持無沙汰だと言ったような表情で、ぱらぱらと手元の小説のページをめくる。それから沈黙を無理やり破ろうとするかのように言った。
「つまんないね。この小説。小説ってものをほとんど初めて読んだけど、つまんない。」
それは、ただ母に相応の教養や読解力がないだけだろうと、僕はなかば心中で毒づくように思ったけれども、でもよく考えてみれば、僕だってそれを面白いと思って読んだことはなかった。
 それに、僕だって、ずっと国語は苦手だった。模試の成績は常に国語の現代文が、一番偏差値が低かった。でも、だったらどうして小説なんて読むようになったのだろう。はっきりとしたことは思い出せないけれど、それは大した理由ではなかったように思う。
「わりと一般常識じゃない?」
ふと、先日、ゼミが同じ女の子と寝たときに自身が言った言葉を思い出した。そのときは大して考えることなくそんな言葉を口にしたけれど、彼女はそのとき、僕のことをいったいどんな風に思っていたのだろう。あれから彼女と密に連絡を取ることはなくなった。断線したイヤホンから流れる音楽のように、ある一定の繋がりを失っていた。今では、僕たちがゼミで顔を合わせても、居心地が悪いかのように、お互い軽い会釈をするだけだ。
 知り合いの誰かが、僕のことを意識が高いだけの自慰行為野郎と言っているのを聞いた。これだから教養のない奴は困ると思いながらも、唐突に真空に放り出されたかのような、そんな虚無感が、僕のことを常に支配していた。
 そのとき、母は今まで見せたことがないような弱弱しい表情で笑った。「つまんない。でも、羨ましいと思った。母さんは、ただこのじいさんが羨ましいと思った。」
僕はそんなことなど一度も思ったことはなかった。ただ気付けば物語が終わっていて、老人の素晴らしい生き様に思いを馳せていたけれど、それ以上のことはなにも感じなかった。それは僕と母の感性の違いに過ぎないのかもしれないけれど、でも僕は、たったそれだけのことで、無性に悲しくなってしまう。どこまでも自分とは正反対の母のことを、やはり僕は、いつまで経っても好きになれない。
「また、一緒に逃げるよ。」
そうして母は持っていた小説をベッドに放り出しては、おもむろに起き上がり、僕の手を掴んだ。そして、そのまま病室の外に出ようとする。まるであの頃のように。僕はそのときはっきりと気付いた。きっとそんな小さな思い出だけが、僕たちの関係性を繋ぎ止めている。
 けれども僕は、そんな母に掴まれた手を振り切った。母のその行動が、まるで僕が昔からなにも変わっていないと思われているようで腹が立った。来月になれば、僕は二十歳の誕生日を迎える。母はそのことを覚えているだろうか。僕は母に倣うように、咄嗟に訳の分からない笑顔を浮かべた。
「もう子どもじゃないんだ。手なんか繋がなくても、ひとりで歩ける。」
僕はそう言って、母の横を同じ歩幅で歩く。でも、そんなことを言って、けれども僕はいつになったら大人になれるのだろうか。分からない。自覚なんかしたくないけれど、僕はきっと、電流に対して生じる、ただの抵抗みたいな存在だ。
「銀河鉄道の夜」からは程遠いなと、そんなことを思いながら、僕たちはゆっくり病棟の屋上に上がる。母の病室の二階上にある、どこまでも広い空の見える屋上に。

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 母の先行きが長くないことは、医師からの病状説明を通して、事前にある程度理解していた。両親が離婚した頃には、すでにその病を患っていたのが発覚していたことを、僕はかなり後になって知ったのだ。母の病気のことを知った瞬間、僕はなかば放心したように真っ白な天上をしばらく眺めていた。そこに付いていた蛍光灯がだんだんと輪郭を失ってゆき、滲んでゆくのを発見して、やっと自分が泣いていることに気が付いた。そこから先はほとんど覚えていない。ただ自分の嗚咽と獣のような声にすべてが掻き消され、気が付いた時には、変わらない朝日が、窓の外に昇り始めていた。
 母は僕とふたりで病棟の屋上にあるベンチに腰掛け、それから十年以上前に辞めた仕事の話をし始めた。
「医者と看護師は、事務なんて人じゃないと思ってる。そんな奴らの機嫌を必死に取らないといけないの。電話で少しまごついてるだけで怒られるし、自分たちが分からないことでも、自信満々に分からないからやってとか言ってくる。たまに間違いを指摘しても、平気で更に間違ったことを言ってくる。人間は生まれながらに不平等だとか言うけどさ、実際は、そんなものじゃないんだから。」
それはもうすでに今までで何百回も繰り返し聞いてきた話だった。それから、病棟に要件を申し伝えようとしたときに、遠回しに面倒ごとを持ってくるなと言われた話や、新人の職員にだけ怒鳴り散らかす患者の話をした。明らかにそれらは、もうすぐ死が迫っている患者のするような話ではなかった。こんなときには、もっと思い出深く、綺麗な話を口にするべきだと思った。僕が病室に入ってすぐ母がとった殊勝な言動とは対照的に、そのとき母は、まさに僕の思っていた母のままだった。そのことになぜか嬉しさを覚えている自分がいた。でもそれでも、家庭での話は一向に出てくる気配がなかった。僕はきっと一番自分が大事だから、そんな母の話を軽く聞き流しながら考えていた。死期が迫ったこのタイミングで、十年以上もの結婚生活についての話ではなく、遥か昔に辞めた仕事の話をするのは、母なりに僕の知らない世界を存分に曝け出し、少しでも僕より、自分の世界が広いことを主張したいからだろうか。
 けれどもそれはもしかしたら違うかもしれない。
「あんた昔言ったね。年齢なんて関係ない。母さんよりも自分はもっと広い世界を知ってるって。」
僕は肯く。そのことを少しでも恥ずかしいと思っている今の自分は、昨日のよりも少しだけ成長しているのだろうか。
「その通りかもしれない。」
自分の愚かしさを眼前で見せつけられているみたいで、だから、そんなこと言わないで欲しいと思う。
「あんたとか父さんのほうが、広い世界のなかで生きてる。」
そんなことなんかない、と思う。
「認めたくないけど、認めたくないってことすら認めたくないけど、あんたのほうが圧倒的に色々なことを知ってる。母さんは、あんたみたいに海外に行ったこともないし、大学にも行かなかった。仕事してるときも、結婚してからも、県内を出たこともない。一生で、旅行だってほとんど行かなかった。でもね、わたしは知ってる。」
母はその瞬間だけ、母ではなくひとりの人間として、僕と向かい合った。人生をより長く生きたひとりの先輩として、僕のことをまっすぐに見つめていた。
「たとえ小さな世界だったとしても、その仕組みは変わらない。必ずどこでも割を食う人がいるし、苦労する人はいる。」
広い世界っていうのは天国じゃない。と言った。そんな言葉を聞くと、母のほうがよっぽど僕よりも世界と向き合っているようで、やっぱり敵わないのだと思う。本当は僕よりもよっぽど頭がいいような気がして、僕は自分が自分で愚かに思えて仕方がなかった。でもそのことを認めたくはなくて、僕はまた曖昧な表情をする。でも果たして、その曖昧な表情は、自分で思い描くみたいに、しっかりとできているだろうか。他人を俯瞰して見ているように思いながらも、周囲からは自分の考えていることなんて筒抜けであるような気もしてくる。こんなに恥ずかしくて、心細い思いをしたことは今までの人生で一度もなかった。
 けれども母は、打って変わって話題を切り替えるように、僕に向かって訊ねた。
「ねえ、あんたは何が好きなの?よく考えたらわたしは何も知らない。」
僕はこんなときでも嘘をつかずに答えられない。いったい僕は誰に認めてもらいたいのだろうか。そんな実像を持った人に、僕はこれから巡り合えるのだろうか。
「ヘミングェイ。」
母は「そう」と言って殊勝に笑った。その表情はまるで、病室に入った直後の母に戻ったかのようだった。それから母は、あたかも最期の言葉を言い残すように呟いた。
「お父さんによろしく。母さんは何か好きなものがあるあんたたちが羨ましかった。」
これ返しておいて、と僕は最後に母から「老人と海」を渡された。そういえば父は「老人と海」が好きなのだろうか。分からない。けれども父の書斎にはヘミングウェイの小説がひとつも欠かさず並べてある。でも僕は、それだけで好きとは言えないことをよく知っている。
 母が亡くなったのは、それからわずか三日後のことだった。

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 □□へ

 貴方のことがずっと嫌いでした。いくらわたしが怒っていても謝りはしないし、次の日にわたしが目を赤くしながら帰ってきても、なんにも声をかけてくれない。当たり前みたいにわたしの作った朝食を食べて、仕事に行く貴方の背中を見ていると、わたしだけ小さなことで怒っているみたいでなんだかずるいね。今でも「きみは多角的に物事を見つめられないんだ」とか言いそうで怖いです。でも、しかめ面して難しい本とか新聞とか読んでる割には世間知らずだし、旅行にも連れてってくれない。わたしが旅行を計画しても、全然乗り気じゃないし、そんな性格のせいなのか、友達だってほんの少ししかいないことをわたしは知っています。仕事のことでも、どうせきみにはなんにも分からないだろっていうスタンスがわたしは嫌いでした。わたしは貴方以上に世間知らずだからこそ、もっとたくさんのことを知りたかったのに、貴方は、そんなことすら分かってくれない。いい大学を出て、誰もが知っている有名な企業に入社して、もう十年以上も働いているのに、人とのコミュニケーションの仕方すら分からないんですね。
 でもわたしは貴方のことが嫌いだから、離婚を決意したわけではないのです。言うならば、それは人知れず消えてゆく猫みたいな。猫、猫だって。貴方は平然と自分をなにかに例えるってことをしていたけど、なんだか思ったよりも恥ずかしい。だからこれ以上は言いません。それに、そんな理由を、わたしが今更ぐちぐちこぼしたところでまったく意味なんか無いでしょうから。
 ただひとつだけ、これだけは言っておきたいんです。わたしはずっと、冒険がしたかったのです。わたしは特に好きではなかったけど、わたしが幼いころ、母はよく「銀河鉄道の夜」を読み聞かせてくれました。だから、あの子も貴方も、心の底でわたしを馬鹿にしてるのは気付いていたけれど、それでも、わたしはどんなに狭い世界のなかだったとしても目のくらむような冒険がしたかった。夜に家を飛び出そうとしたとき、ついに貴方は一度もわたしを追いかけてくれることはありませんでしたね。本当は、わたしはずっと、貴方が謝ってくれて、一緒にどこかに行こうとか一回でも言ってくれれば、喜んでどこまでも行こうと思ってたんですよ。けれども貴方はそんなことなど微塵も考えはしなかった。ずっと鈍感に変わらない明日が来ると思ってた。そんな選択の間違いを、難しい本でも読みながら、一生後悔して生きてください。

PS・機会が機会なので、わたしが見繕った本を一冊送ります。暇が出来たときにでも、読んでくれたらと思います。

△△より

 すぐ近くに可愛らしい絵の描かれた少女漫画が置かれていた。それを見て、僕たちは母の好きなものなんて微塵も知らなかったのだと気が付いた。そしてそんなことを思うと、自然と涙が滲んできて、勝手に読んでいた手紙の上に、一粒の雫が零れ落ちた。すでにインクみたいに滲んでいた誰かの涙に重なって、それは波紋のように更に大きくなった。
 秒針が進んで、明日がその瞬間今日になる。夜十二時、父はまだ仕事から帰ってこない。けれども、そんなことをよそに僕は二十歳になる。世界のことなんてなにも知らないまま。

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