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若き産休補助教諭の奮闘 その3

 「このクラスなんだが 今日から頼むよ」
廊下の窓ガラス越しに 机から机に飛び移る児童たちが目に映る。そしてドアの前で促され 一人足を踏み入れた4年生の教室。先に受け持った何人かの教師では手に負えず、誰かいないかと 前任校の校長からの打診で仄めかされていたもの 実際にヤンチャな児童と とっ散らかった空間に身を置くと 私の中から 凛とした何かと 柔らかい何かが交差した。

 覚えていない。でも確かに子供たちは変わって行った。

 私は教師ではなかったんだ。ただ国語や算数を教える教員ではなかった。
 例えば高校の時 3人で歩く帰り道 1人だけ話題に入れなかったとか 良くあるケースの時に その1人に気遣える人になりたい。勉強が得意不得意関係無く でもいつでも笑顔でいられる強さを持って生きる人になりたい。日本は高度成長期に田舎が都会のように発展を遂げ、それはそれは便利な世の中になった。そして便利で煌びやかな都会へと人々は流れ行った。だけど 偉人はそれを創り上げた人で、そこに住むだけの人ではない。0から創造して行く人の力こそ魅力的 そんな風に思っていた。そんな人間にこの中のどの子がなれるのか 若き産休補助教諭の私には 到底分からなかったに違いない。
 だからこそ 誰の事も 誰のその行動も頭から否定しなかった と思うのです。

 ある登校拒否の児童がいて、なかなか学校に来てくれなかった。そんな時は自宅を訪ねた。玄関から伺える殺伐とした空気に 心を落ち着かせて話しいる。何回通っただろう。
 ある児童の母親からは、父親に住まいや居所を知られたら暴力を受けるので 絶対に知らせないでと
匿う事になる。大人の事情でいろいろ振り回される子供たちの事との出会いもあった。
 
 それでも私から見たら みんな可愛い子たちだった。あどけない瞳 大人の心を見透かすまっすぐな眼 学びたい知りたい伸びたいを爆発させるエネルギー 子供たちはいかようにも 成長する。そんなエネルギーを私こそが浴びながら共に成長して行った。と思っていた。

 未熟な20歳そこそこの講師なのに、何故か天職と思っていたのは、若さゆえ 傲慢だな。結局教員採用試験は3度挑戦し3度落ちた。私には教職の道の切符すら手に入らなかったのだから。

 ※40年近く前の記憶の話
 ※この後 結婚し 教員になれなかったコンプレックスをずっとずっと持ち続ける そして記憶を葬ってしまったのだー汗
 

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