【ショートショート】墓穴
月のない夜。空を飛び回る星があった。
はじめ楽しそうに。それから興味深げに。段々と混乱したようにブンブンと上空を旋回する。やがて王城の一番高い塔の上にとまり、しばらくすると今度は辺境までひとっ飛び。ぐるりと辺りを一周して、すいっと地上に降り立った。
闇色の大地はでこぼこと隆起して十字の乱杭が突き出している。墓地だろうか。
一筋の光となって舞い降りた星は、明滅する蛍みたいにじわりと光を弱める。するとその中心に人影が現れた。もちろん人間ではない。その証拠に背中に優美な翼を持っていた。多分、天使じゃないだろうか。
幻想的な光景なのだけれど、天使は翼なんて無いみたいに両の足でしっかりと地面を踏み締めると、ドタドタと歩き出した。両頬に手のひらを押し当てて、何やら呻いている。嘆かわしいとばかりに頭を振るので、腰まで届く金の髪がふわふわと揺蕩った。
「コレは酷い。本当に酷い。せっかく愚王を廃して新王に王冠を授けたというのに。たった四年でどうしてあの暴君が返り咲く事になるのやら。あの男は悪魔の手先だと口酸っぱく警告してやったはずなのに!まったく空いた口が塞がりません。だけど王都の人間はまだマシだ。未来を憂え、前王への恐れを抱いていた。しかしですよ。城を遠く離れるほどに、あの悪魔を心から信奉する民の声がどんどん大きくなる!どうしてどうして。私にはさっぱり解りません。ねえ貴方、なんでなのかを私に教えて下さいませんか。そこな穴掘り男さん」
天使は地面に向かって話しかけた。その足元をよくよく見れば、灯ひとつない夜の闇に怪しく蠢くものあり。まるで冥府への入口のような穴の中。鈍く光る一対の瞳。
のたりと振り向いたのは、くたびれ切った一人の男。
目ばかりが鋭く、痩せこけ、髭と髪は伸び放題。裾が破れた服は、元が何色かも分からないほど泥に塗れ、手に持つ鋤は持ち手がもげてしまっている。
「ねえ、穴掘り男さん。私の気持ち、分かります?きっと良い世の中になっただろうと様子を見に戻って来たらですよ。ちょっと目を離した隙に振り出しに戻るどころか、破滅に向かって急転直下!」
天使は芝居がかった仕草でよよよ、と涙を拭う。
「絶望ですよ、絶望。せめて迷える子羊から話を聞こうと教会を探しても、信徒はおろか、シスターも神父も見当たらない。皆、いったいどこに行ってしまったのか。どうしてまた悪魔に騙されてしまったのか」
穴掘り男は俯いたまま、壊れた鋤を身に引き寄せる。みじろいだ体から腐臭が漂った。まるで生ける屍だ。錆びついたような口元がギシギシと動く。
「新、王の」
漏れ出たのは嗄れた声。血を吐くような語り。
「新王の、時代が、始まってすぐ。疫病と、災害が、国を襲い、多くの、命を、刈り取っていきました」
顔を覆うもつれた髪と濃い髭のせいで、男の表情は殆ど分からない。果たして悲しんでいるのか、喜んでいるのか、怒り狂っているのか。けれど存外、紡ぐ言葉は理性的だ。
「貧しい地域や、辺境ほど、被害は甚大で。力無い者から順に、薙ぎ払われます」
胸元をまさぐり、ふと言葉を切る。どこか遠くを見る瞳がギョロリと開かれた。震える吐息は今にも慟哭に変わりそうでいて、涙は流れない。もう枯れ果てたのだろう。
「私には何も出来ませんでした。全てが終わってから、ただ累々と横たわる死屍を葬って回るくらいしか」
裸木を揺らしてひゅうひゅうと風が鳴いている。
「お探しの教会はここです。信徒はみな十字架の下に眠っています。私が最後に残った神父」
家もロザリオもなくした穴掘り男は、足下に広がる底知れぬ闇を見下ろす。光は遠く、闇はいつもすぐ側にあった。
「この悪夢を終わらせてくれるのなら、もう縋る相手が悪魔でも構いはしません」
言い終えると同時に突風が吹き荒れ、耳を劈く轟音が鳴り響く。鋼鉄の大門を閉める音に似た、もしくは砲声のような。
男は、はっとして辺りを見回した。
目の前には相変わらずうらぶれた墓場が広がるばかり。猫の子一匹いやしない。ぶ厚い雲に覆われる空には、星の一つも見つけられない。
何か大事なものが失われたような気かするが、それが何なのか思い出すことも叶わない。感じ取れるのは濃密な土の匂いと、死の気配ばかり。
男は骨と皮だけになった手に、壊れた農具を握った。棒のような腕を振り下ろし地を穿つ。
やがて自らの墓穴とすべく。ざくり、ざくりと。