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紋別中学校中廊下の思い出(2)

記憶からすっぽり抜け落ちていた中廊下(下図の赤矢印)のことを考えていると、中学2年の教室がここにあった気がしてきました。もしかすると1年の教室だったかも知れないけど、どうしても、この廊下を歩く担任の後姿が浮かんでくるので、中2だったと思う。

担任は宮田健一先生。先生の中では比較的若い方でルックスも良かったのに、それらを潔く打ち消す感じで、スリッパを履いて、パタパタ蟹股で歩く理科の先生でした。


しかし、この中廊下の強烈な思い出は、別の先生のことです。

ある日の放課後、クラスメートのS村君と二人でお喋りしていると、「お前たち、なにやってんだぁ?」と技工の畑中先生がドスを利かせた声で入ってきました。畑中先生は少し太って猫背、少々髭面のお年寄りでした。

僕たちはただお喋りしていただけなので、「何もしていません。ただお喋りをしていただけです」と答えましたが、よほど腹の虫の居所が悪かったのか、それとも、日頃から目を付けていたのか、S村君の胸倉を捕まえて黒板に押し付けて立たせると、T定規で彼の頭を叩きました。それは、この先生が技工の授業で使う木製の大きな定規で、硬くて重いものです。


二人で茫然と立ち尽くす中、先生は文句を言いながら去っていきましたが、何もしていないS村君に対する理不尽な暴力は許せなく、僕は「教育委員会に一緒に行こうぜ」と言いました。でも、彼は悲しそうに、悔しそうに下を向くだけでした。

今になって思えば、僕一人でも教育委員会に、いや、最低、校長先生にでも申し立てに行けばよかったと思います。一体全体、畑中先生は彼のどの一面に対して、暴力をふるう程の憎しみを持っていたのだろう?


何はともあれ、そんなことをする先生を尊敬することも、普通に思うことすら出来ません。それは男子生徒一般の思いだったと思います。だから、僕たち男子生徒は先生と言わずに「畑中のじっこ」と呼んでいました。

その畑中先生には、ひとつの口癖がありました。それは、生徒が問題を解けなかったりすると飛び出しました。

「おまえ、はよ、20線道路行け」


20線道路とは、紋別市内から南が丘を抜けると道が二手に別れます。一つは元紋別へ、もう一つは山道で、それが20線道路なのですが、そこを進んでいくと「焼き場」すなわち「火葬場」がありました。つまり、先生の言いたかったことは、そういう事です。


その先生は、僕たちが中学を卒業する直前だったと思いますが、20線道路に行ってしまいました。

男子生徒には暴力を振るうし、女子生徒にはお尻を触わったりしていたので、彼の死を悲しんだ生徒はいなかったのではないだろうか。勿論、S村君にあんな暴力を振るったのですから、僕にはなんの悲しみもありませんでした。


畑中先生は僕の父より年上でした。つまり、戦争経験者です。

僕の中では、ずーっと「畑中のじっこ」のままですが、もしかすると、戦争で、どうしようもないトラウマを抱えることになったのかも知れないと考えると、ほんの少し彼を許してあげたい気もします。

(まこと)

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