世界最強モンゴル帝国を苦しめた世紀の抵抗者(レジスタンス)6選

中世ユーラシア史上最大の版図を有したのが、かのモンゴル帝国です。

スペイン帝国・ソ連・アレクサンダー帝国・ティール帝国などを抑え、大英帝国にわずかな差で次いで世界史上でも2位。

そんな超国家の中でも特に最大英雄である、チンギスハンとフビライハンを苦しめた男たちをここに紹介します。



①北条時宗(日本)

鎌倉幕府第8代執権。

フビライハンから国交を求める国書が届くと、ただちに前執権政村から代替わり。

北条得宗嫡流として挙国一致の重い役職に就きます。

モンゴルからの国書には黙殺を続けつつ、鎮西の防備を強化。

文永の役では日本武士の奮戦もあり、元軍は早期退却。

その後も

●異母兄時輔や一族衆の時章、教時などを誅殺

●日蓮を佐渡に島流し

●元(1271~)からの使者を斬首

など、さらなる国内の引き締めを図ります。

弘安の役において、日本軍は元軍との激闘の末、大嵐が吹き荒れ、元の船の多くが大破。

こうした天運にも恵まれて二度目の国難を乗りきると、時宗はその3年後力尽きるように病没しました。

享年満32才。

②完顔陳和尚(金)

金の軍人です。

モンゴル軍の苛烈な攻撃の前に敗戦を続ける金軍。

しかし、陳和尚はその中にあって手勢わずか400騎にて8000を撃破します。

さらに河南・陝西に転戦を続け、孤軍奮戦。

その勇名は敵・味方にとどろきわたりました。

陳和尚の軍は民族バラバラの混成軍です。

しかし、いずれもがかつてモンゴルに故国を踏みにじられた復讐心に燃える男たち。

その計り知れぬ戦闘意欲はモンゴルの精猛さをものみこみます。

1232年1月開封西南の三峰山にて金・モンゴル両軍が激突。

しかし、名将スブタイ指揮下のモンゴル軍に圧倒され、陳和尚も虜に。

陳和尚は敵総大将の前に引き立てられますが、あくまで潔い死を求めます。

降伏勧告をはねのけ続け、手を折られ、脚を折られ、ついには刀で口を耳まで斬られ、なおも意思を曲げることはなく、ついに死を与えられます。

モンゴル側は彼の壮烈に過ぎる最期に、

「好男子よ。いつの日かまた生まれるならば、われらの中に生まれ変われ」

と言葉を落としました。

③文天祥(南宋)

科挙に首席合格した文武優秀な官吏。

一方で信念には強直。

理屈が通っていなければ、相手がだれであろうとはっきりと“No”を突き付けます。

文天祥はこうしてたびたび失職しますが、そのたびに復活。

元軍を相手にゲリラ戦を展開して苦しめますが、ついに捕まります。

フビライハンは文天祥の才能を惜しみ、なんとか降伏するよう勧めます。

しかし、文天祥はあくまでこれを拒否。

この時、文天祥の詠んだのが“正気の歌”です。

フビライハンは仕方なく文天祥を処刑することにします。

その時、文天祥は南(南宋の方角)に向かって礼をし、刑に服しました。

フビライハンは彼のことを「真の男なり」と評しております。

④金通精(高麗三別抄政権)

三別抄は高麗の分派政権です。

元宗の開城政権はモンゴル帝国に服属しますが、三別抄政権はこれを潔しとしません。

あくまで抵抗活動をつづけ、ついには済州島に移り、背水の拠点とします。

その首領が金通精。

海を越えて押し寄せる元軍の猛攻。

三別抄はねばり強く戦い続け、一方で日本には援軍要請。

しかし、これは黙殺されると多勢に無勢、三別抄軍は次第に消耗し、ついには玉砕します。

金通精も自害。

彼らの存在がなければ元軍の日本への侵攻が数年早まっただろう、と言われております。

⑤陳興道(陳朝ベトナム)

ベトナムは中国、フランス、アメリカなどの大国を幾度も払いのけてきた“ジャイアント・キリング”の伝統国です。

しかも、元による侵略作戦そのものを払いのけた回数は日本を上回る3回です。

この時に司令官として伝説的な戦陣指揮を執ったのが陳興道。

時のベトナム皇帝が元軍に降ろうとした時に陳興道が放った一言。

「戦わずに降伏するくらいなら、わが首を差し出せ」

第一次、二次において陳興道は首都タンロンを敵側に明け渡す代わりに、ゲリラ戦術でねばり強く敵を消耗させます。

そして、敵の補給路を断ち、浮足立たせてすかさず強襲・駆逐します。

第三次においては白藤江の川底に大量の杭を打ち込み、敵水軍を誘導して川上に干しあげ、殲滅いたしました。

今も彼はベトナム国民守護のシンボルとして絶大な信奉を集めております。

⑥ジャラールッディーン、ティムール・メリク(ホラズム朝)

ホラズム朝はサマルカンドを首都に栄えた中央アジアのイスラム王朝です。

が、モンゴルの使者を大量殺害してしまい、その報復にさらされます。

圧倒的なモンゴル軍の強さと、自軍を分散して各個固守させるというまずい作戦から、個軍ひとつずつしらみつぶしに殲滅され、広大だった国内の大半は燎原の火の如く侵略され、王ムハンマドはカスピ海の小島に敢え無く追い込まれ、亡くなりますが、その跡を受けて反撃に立ち向かったのがその王子ジャラールッディーン。

敵の占領地真っ只中を僅かな軍で強行につっきって自身の本拠地アフガニスタンまで移動。
そこで自軍を纏め直すと、北上し、カブールの北方パルワーン平原で、ついに無敵モンゴル軍を撃破。

しかし、味方の仲間割れと、チンギスハン本軍が急追して来たことから、ふりの中、衝突し、打ち破られ、絶体絶命となりました。

その時にジャラールッディーンは追いやられた崖からインダス川に乗馬もろとも飛び込み、泳ぎ渡ります。

モンゴル軍の射手たちはこれに追撃を加えようとしますが、チンギスハンはこれをおさえ、

「武勇の模範とせよ」

と、諸士に訓示を与えました。

一方、ティムール・メリクはホラズム王国のホージェントの司令官。

サイフーン川の川中島の砦1000人でこもり、70000人というモンゴル軍を迎え撃ちました。

ティムール・メリクは粘りに粘って水戦に弱いモンゴル軍を苦しめますが、ついには支えきれなくなります。

そして敗走の末、単身となりはてなおも追いすがる敵たちに対し、持ち矢は三本。

一本で敵の目を射抜き、残る矢で敵を威嚇し、あきらめさせました。

ジャラールッディーンとティムール・メリクはともに手を取り合ってモンゴル帝国相手にしぶとくしぶとく抗戦を続けます。

しかし、悲願であったモンゴル帝国打倒はついにならず、ともにあえない最期をむかえました。

きょうのまとめ

天・地・人という格言があります。

その点、彼らにはこれらのなんらかが備わっていたことがかんがみられます。

そして、完備されればされるほど勝利に近づいております。

つまり、“運”、“地の利”、人の“一致団結”。

特に目立つのが、みんなおおむね“地の利”を生かして戦っております。

モンゴル軍は騎馬を利用した平地戦が得意です。

いかにそれをさせないか。

海や沢沼、山岳、密林などに誘い込む。

また、相手は遠征の大軍です。

補給路をねらうというのが効果的。

つまり、

●チャンスが来るのをねばり強く待つ“天”

●平地で正面衝突をせずに、敵の苦手をチクチクと突いて弱らせる“地”

●不退転の決意と一致団結で敵の精猛を上回る“人”

というのが彼らの勝利や善戦に特徴的な共通点のようです。

強敵をやっつける、苦難を退ける、というのは何とも難しいことです。

が、歴史にはいろんな知恵や勇気が潜んでおります。

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