匈奴の個性的な支配体制や習俗
戦国末期の戦乱から冒頓単于、武帝時代、王昭君、……。
中国古代史をひもとくと、時折顔をのぞかせ重要な局面を演じる匈奴。
そんな謎めいた北方騎馬民族とはいったいどんなものだったのか
●歴史
●統治
●習俗
の3点から探ってみましょう。
匈奴とは
“匈奴”とは“中華”とよく似た一つの政治グループです。
“中華”の中に様々な人種や言語すらあるのと同じような概念です。
匈奴の年表
「薰鬻(夏)→鬼方(殷)→獫狁(周)→匈奴(漢)」と呼び方が変わったというのが『晋書』にある説です。
紀元前318年 燕・趙・魏・韓・楚五か国連合に匈奴が援兵し、秦に敗れる
紀元前265年 趙の李牧、雁門にて匈奴に大勝
紀元前200年 白登山の戦いで匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)が漢の劉邦を追いつめる。以後、漢は匈奴の属国化。
紀元前161年 匈奴が月氏を討ち、西走させる
紀元前133年 匈奴と漢、全面抗争に
紀元前121年 漢の霍去病、匈奴を討つ。匈奴、漢に降伏。
紀元前99年 漢の李陵、匈奴に降る
紀元前90年 漢の李行利、匈奴に降る
紀元前57年ごろ 匈奴が東西に分裂
紀元前33年 漢の公主王昭君、東匈奴に嫁す
紀元後10年 新の王莽、匈奴併合に失敗
紀元後48年 匈奴南北に分裂
紀元後158年ごろ 鮮卑の圧迫により東トルキスタンの北匈奴が西方へ移動を開始(→ヨーロッパにおける民族大移動の原因となった「フン族?」)
紀元後193年ごろ 南匈奴の於扶羅、曹操に降る
紀元後304年 於扶羅の孫劉淵、漢(前趙)を建国
冒頓単于
匈奴の歴史を語る上で最も知られた英雄が冒頓単于(ぼくとつぜんう)です。
父頭曼単于の嫡男。
しかし、頭曼単于はほかの子どもに跡を継がせようとします。
頭曼単于は冒頓単于を月氏への人質として差し出します。
そして、そのどさくさに月氏を襲い、月氏の手で冒頓単于を殺させようとしました。
しかし、冒頓単于はここから逃げ延びるだけでなく、一頭の善馬を奪ってきました(敵から善馬を奪うのは匈奴における誉れです)。
冒頓単于はやがて頭曼単于を殺し、単于(匈奴における皇帝)に就きます。
その後、東に強勢を誇っていた東胡を討ち、西の月氏を奔らせます。
中華を統一した前漢劉邦の大軍をも破り、白登山にまで追い詰めました。
劉邦は何とか助かりますが、その後前漢は匈奴の属国となり、公主を嫁に差し出し、毎年たくさんの貢物を贈らねばならぬこととなりました。
匈奴の支配体制
匈奴社会の頂点に君臨する単于は攣鞮氏(れんていし)という氏族から出されます。
その下に左右賢王、左右谷蠡王、左右骨都侯が置かれ、太子は常に左賢王になります。
二十四の長官があり、すべて世襲です。
毎年正月、五月、九月に竜城で部族代表会議が行われます。
匈奴の習俗
若者を大事にする
匈奴では騎馬遊牧の主力となる若者をとても大事にします。
食事は若者が先に食べ、老いている人たちはその残り物を食べます。
父・兄の未亡人を
匈奴ではある男が死ぬと、その未亡人は男の息子や弟が引き継ぎます。
匈奴の葬礼
匈奴ではもともと単于が死ぬと殉死の伝統がありました。
時に百人以上が殉じたこともあり、やがて廃止されました。
このあたりは秦の穆公(※)における大量殉死を彷彿とさせるところがあります。
(※)春秋五覇の一人。名臣百里奚を抱え強国化。その死に家臣177人が殉じました。
匈奴ではその後、単于の葬儀の際に
●顔を切りつける
●髪の毛を抜く
などをして弔うようになります。
匈奴では略奪品は得た人のものになります。
それは“人”もです。
匈奴は中華北辺の人々を積極的に拉致しておりました。
その目的は農業・手工業などにおける労働力です。
匈奴でも実は農業がおこなわれておりました。
その作物は黍や稗・豆類など。
おそらく家畜用でしょう。
また、ナイフや鉄などを安定的に確保する必要もありました。