小泉八雲の人生
明治
という境目の時代に
西洋から日本へと渡ってきた小泉八雲。
新と旧の
そして、
洋の東と西の
狭間に生きた人。
今回はそんな八雲の人生について振り返ってみたいと思います。
●小泉八雲生まれる
八雲の父
チャールズ・ブッシュ・ハーンはアイルランド人であり、
イギリスの軍医。
八雲の母
ローザ・カシマチはギリシャ、キティラ島出身。
チャールズが軍の任務でギリシャ、イオニア諸島を訪れた際に二人は出会い結ばれました。
母ローザは現地の名家出身。
ローザの家の者たちはチャールズとの結婚にあまり快い意を示さなかったといわれます。
それでもなお二人は結婚。
そして、
レフカダ島で生まれた男の子が
ラフカディオ・ハーンです(ラフカディオはレフカダから)。
●八雲の複雑な幼少期
こう見ると、
その出生からして洋の東と西の狭間の運命を伴っていたと言えます。
シュっと高く伸びた端正な鼻。
でも、
黒い髪と黒い瞳。
しかし、
そういった少年の成長をしり目に父と母の関係はしっくりいきません。
いつの日か
父チャールズは幼馴染の女性に魅かれてゆきます。
それでいて母ローザは慣れないダブリンに暮らし、日々にその心を病んでゆきます。
やがて、チャールズとローザは別離することになり、
ローザはかつての故郷ギリシャへと帰ってゆきます。
ローザはダブリンの屋敷を出てゆく時、
子ハーンにその”長い(以後彼らは二度とあっておりません)”別れを秘しました。
何を思ってローザはこの屋敷を後にしたのでしょうね。
そして、
ハーンはどう察したのでしょうか。
ハーンはその自分を見舞った幼少期の悲劇をどこまで理解していたのかわかりませんが、
生涯にわたって母ローザのことをいたく敬愛し、
父チャールズのことを憎みました。
そういった”東洋的”な脈動がハーンには色濃かったのかもしれません。
やがて、父も任務中異邦にて病に没し、
ハーンは父方の大叔母サラ・ブレナンの庇護のもと次第に大きくなります。
●小泉八雲とアイルランド
ここで忘れてはならないのが、
アイルランドという場所の意味です。
元来ここは
ケルトの国。
その後に伝播してきたキリスト教文化と
ところにより同化し、あるいは背反しながら存続してきた独特の自然文化があります。
ケルト神話をご存じでしょうか。
半神半人の悲劇の英雄クーフーリンの冒険物語。
そして、
バンシー(泣きむせぶ女の妖精。死を予兆する)
レプラホーン(靴直しの小人の妖精。捕まえると大金持ちになれる)
プーカ(いたずら者の妖精)
など、日本でも知られた妖精たちのワンダーランドです。
あの
「ハロウィーン」
もアイルランド起源です。
緩やかな日差し。
曇りがちのそら。
見晴るかす草原。
そんな独特のあやかしの国。
ハーン少年も幼いころ、
ある不可解な現象に突然出くわしたことがありました。
ハーンの屋敷には
ジェーンという居候の女性がおりました。
そんなある時、ハーンは薄暗い部屋の片隅に黒い服を着た女性を目に止めました。
ハーンがジェーンだと思って呼びかけると、
その女性は振り返り、
その顔には目も鼻も口も耳もありません。
ハーンがあっけにとられていますと、
その女性は瞬く間に消えてなくなりました。
それから幾日かしてジェーン本人はふと亡くなってしまいます。
このお話はどこかハーンが日本に来てから書く代表作『怪談』の一節、
『貉(むじな)』。
“のっぺらぼう”のお話に似ておりますね。
●無聊の少年期
少年ハーンはカトリック系の学校に預けられます。
しかし、
ここのすこぶる禁欲的で教条的な生活がかなり合わなかったようです。
そして、
大きくなるごとにいよいよと学校のやり方に反抗的となるハーン。
ある時は、
学校の大人に
「今、女の子のことを考えていた」
という校風にまるでそぐわぬことを挑発的に口にします。
そんな思春期、
さらなる不幸がハーンを襲います。
”ジャイアントストライド”
という遊具の遊びをやっていて、
回る縄目を左目に受け、失明してしまうのです。
ハーンの写真を注意深く見てください。
どの写真もかならず”左目”の映らないように撮られております。
そんな無聊の中でハーンは、
一族全体をも覆ってしまう大変な災厄にすら見舞われてしまいます。
●苦難のアメリカ時代から渡日まで
大叔母サラ・ブレナンだけでなく、
父方は大変な名門であり資産家です。
しかしそこにある事業を持ちかけてくる男がおります。
サラ・ブレナンはその話に乗り、
結果として大損失をこうむります。
こうしてかつての名家も昔日の夢、破産して、
ハーンも居場所を失い、
単身、移民船でアメリカに居場所を求めなくてはならないようになります。
当時、ハーン19才。
ニューヨークから誰も頼れる者もなくシンシナティにたどり着き、
物乞い同然から這い上がってゆくこととなるのです。
ハーンは後に
「やくざなこともやった」
という泥沼のアメリカ時代当初。
ただ食いつなぐためにどんな仕事でもやりました。
やがて、地元の新聞記者になり、
少しずつその暮らしは安定してゆきます。
ちなみにハーンは、
教養を独学で身に着けるため、
空き時間に図書館に通い詰め、
書棚から書棚を片っ端から読み込んでいったようです。
ハーンはこう言います。
「アリは最高の生き物だ」
そうやってただ勤勉に働き詰める姿にハーンは理想を重ねたようです。
やがて、24才。
ハーンは
黒人のマティ・フォリーと結婚いたします。
が、
その暮らしはあまり長く続かなかったようです。
何かと世話焼きなハーンの思い入れとやや破綻がちだったマティの現実との間にはどうも埋めがたい隙間があったようです。
ハーンは次に南のニューオリンズに移り、
ここでは友人と
「不景気食堂」
として共同事業を起こしましたが、
友人に事業費を持ち逃げされるという災厄にも見舞われました。
次第にジャーナリストとしてキャリアの上がってきたハーンは当時開国して間もない”日本”に興味を示すようになります。
やがて、太平洋を横断する船に乗り込み、渡日。
大海原から眺めるその富士の高嶺の偉容はいかばかりだったでしょうか。
ハーンは横浜から入国して、松江の尋常中学校教師の仕事を斡旋され、
当地へと赴任いたします。
●松江、そして恩人たちとの出会い
松江はラフカディオ・ハーンにとってかなり神秘的で感慨深い地であったようですね。
古来
神の居ます国。
当時、
文明開化
西欧列強に追いつき、追い越せと明け暮れていた中央からはかけ離れ、
いまだ近世以前の風俗と自然が色濃く息づいておりました。
ハーンはここにいたく感化され、
“古き良き日本”
というものにあこがれを強くします。
我慢強く、
穏やかで、
つつましやかで、
ハーンが幼いころから経験した
近代西洋的な
乱暴で画一的なあり様とはまるで対極にあるように思えました。
ハーンの中に眠っていた何かが騒いだのでしょう。
やがて、
地元の武家の娘でありながら、
維新により零落を余儀なくされていた小泉セツと結婚をします。
ハーンとセツは終生仲が良かったようですね。
ハーンはセツのことを
「ママさん」
と呼び、
セツはハーンのことを
「パパさん」
と呼ぶようになりました。
二人の間で交わされる言語は
「ヘルンさん言葉」
といわれる日本語のような
彼らだけが語るなんとも不思議でどこかコミカルなものです。
ちなみに「ヘルン」とは「ハーン」がなまったもの。
ハーン自体自分のことを好んでこう称していたようです。
セツは八雲のために
幼いころよりの記憶から
あるいは、
巷などからよいネタを集め、
ハーンに語って聞かせました。
これらがハーンの創作活動の貢献となったのかははかり知れません。
そして、忘れてはならないのが、セツとハーンを合わせたという
西田千太郎
という人物の存在です。
この人は八雲が赴任した当時の松江尋常中学校の教頭で、
「松江聖人」
と地元で親しまれたほどの人格者。
海外から赴任して不便の多いであろうハーンをなにくれとなく世話いたしました。
ハーンはこの人を大変に信頼しますが、
わずか36才、結核にて先立ってしまいます。
●熊本時代
ハーンはそれでもやはり
漂泊の人
なんですね。
たった1年で松江に耐えられなくなって、熊本へと転居します。
なぜあれだけ気に入ったはずの松江が無理になったかというと、
その寒さです。
当時の日本では暖房器具といえばせいぜい火鉢ぐらい。
あとは重ね着と我慢で何とかするしかありません。
デリケート極まりないハーンはもう我慢ができません!
ハーンは仕方なしに第五高等学校(今の熊本大学などの前身)の教師の仕事をあてがってもらい、早速転任いたします。
しかし残念ながら、
どうもここの風土はなじまなかったようですね。
熊本は西南戦争の影響で日本らしい古い町並みがあまり見られず、
それでいて五高のほかの大概の教師たちともあまりそりが合わなかったようです。
ハーンは好き嫌いがものすごく激しくて、
しかも
表になかなか現れやすい性格でしたので、
いつもそうですが、敵も味方も多いのですね。
それが熊本の場合だいぶ悪い方に振れてしまったようです。
ただ、教え子たちにはあいかわらず大変に慕われていたようです。
この人はその生涯終始一貫して”弱い者の味方”です。
その代わり強者が横暴をふるった時はわき目もふらず反抗します。
やっぱり漂泊の人。いやなものはいや!
ハーンは本当に多感な人ですから、
熊本時代の手紙でも
その
“いやいや”
が結構露骨に見えます。
なんとしてもよそに行きたい。
40を超えたおっさん、大いに駄々をこねます(誰にでもではありません。特別に気を許した人間にだけです。)。
3年ほどで神戸の英字新聞社に転勤。
さらにその2年後には東京帝国大学の教師となり、赴任いたします。
●東京帝国大学赴任
ハーンはこの東京赴任にあまり気乗りしていなかったようですね。
それよりは隠岐の島あたりでゆったりとやっている方がよかったとか。
でも、もうこのころには男の子二人が生まれておりますし、
実は結構チャキチャキしたセツ婦人は
「そんな田舎ではイヤ!」
です。
ハーンの性格はここでも相変わらずで、
なぜか職員室には居場所がなくなるようです。
いつのまにか昼休みになると、外の三四郎池のあたりを散歩するようになりました。
そして、
こちらも周囲から大変に人望のあったお雇い外国人の一人
「ケーベル先生」
にはすれ違いざまに唾を吐き捨てられたりしたようですね。
それでいて
やっぱり生徒たちには圧倒的なカリスマぶり。
ある生徒の証言では、
「たゞ見る身材五尺ばかりの小丈夫、身に灰色のセビロをつけ、折襟のフランネルの襯衣に、細き黒きネクタイを無造作に結びつけたり。顔は銅色、鼻はやゝ高く狭く、薄き口髭ありて愛くるしく緊まれる唇辺を半ば蔽ひ、顎やゝ尖り、額やゝ広く、黒褐色の濃き頭髪には少しく白を混へたり。されど最も不思議なるは其眼なり。右も左を度を過ぎて広く開き、高く突き出で、而して其左眼には白き膜かゝりてギロギロと動く時は一種の怪気なきにしもあらず。されど曇らぬ右眼は寧ろやさしき色を帯びたり。』『やがて胸のポケットより虫眼鏡様の一近眼鏡をとり出て、之をその明きたる一眼に当てゝ、やゝさびしく、やゝ羞色あり、されど甚だなつかしき微笑を唇辺に浮べつゝ、余等の顔を一瞥されし時は、事の意外に一種滑稽の感を起さゞるを得ざりき。突如その唇よりは朗かなれど鋭くはあらぬ音声迸り出でぬ。英文学史の講義は始まれる也。出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ。爾来三年の間余は一回としてその講義に列するを以て最大の愉快と思はざるはなかりき。(原文まま)』
ハーンという人は非常に意が強く、面倒見もよいのですが、
周囲にいろんな衝突や誤解を与えてしまうようです。
ちなみに、
ハーンの講義録というのを見たことがあるのですが、
さすがに博識であり、
非常に系統だってわかりやすいです。
このあたりにもハーンの人柄がよくにじみ出ております。
もしよろしければ、図書館などで当たってみると面白いでしょう。
あと、彼の書簡集も楽しいです。
熊本での”ゴネぶり”などもお目にかかれますよ。
●お金の使い方は割とザックリ
ちょうどこのころ、
ハーンは
日本国籍を取得し(イギリスとの二重国籍)、
「小泉八雲」
という日本名を名乗り始めます。
小泉とはセツの血筋。
八雲とは、
出雲(今の島根県東部)の枕詞
八雲立つ
から取ったといわれます。
八雲の家には
婦人セツ、
子供たち、
さらにはセツの親族、
若い書生さん、
様々なお手伝いさん、
などがたくさん入れ代わり立ち代わり住んでおります。
八雲自身、
お金の使い方は割と大っぴらだったようですね。
長男の一雄さんなどは手記で
「父がその場で”いい”とみなしたおもちゃはあまり値段に関係なく買い入れてくれた」
とおっしゃっておりましたし、
日々当たり前にみんな連れ立ってビフテキだの寿司だのを食べに行っておりますし、
毎年、夏になると、
子供たちや書生さんらと連れ立って焼津に避暑に出かけます。
決して悪趣味ではなく、
これということ、
や
自分の身の回りの人たちのためなら
あまりそういうことを細かく気にかけなかったようです。
●死を意識する八雲
このころになると、
八雲は自分の生い先というものをかなり気にかけるようになります。
ある時長男の一雄、セツ婦人と散歩に出るのですが(八雲は散歩が大好きです)、
そこで死体焼き場の煙突から煙が上がっているのを見ます。
すると、
「自分はもうじきあの煙になるでしょう」
と悲嘆のように口にしたといいます。
もともと八雲は四十を越えてからの晩婚。
しかも、
すでに幾分病がちとなっております。
八雲にとって大きな課題は
自分が死ぬまでに、
どうやって残された家族たちが生きていけるようにするか、
ということでした。
教育熱心な八雲は大学の講義に出るより前の早朝には必ず一雄に英語などを教え、
焼津では水泳を仕込みました。
それでも、
「子供らが大きくなるところを自分は見れない」
というのを直観として感じ取っていたようです。
不幸中の幸いとして八雲の死後、
八雲の親友
元軍人で資産家のミッチェル・マクドナルド氏らの貢献により、
家族はどうにか支えられ、
子らはそれぞれに大きく羽ばたいてゆきます。
●八雲の夢と幻滅
東京に越してきた当初、
八雲一家は市谷富久町に住んでおりました。
家のすぐ近くに「瘤寺」というお寺があり、
そこには立派な杉の木が生えており、
都会の喧騒を忘れさせてくれたのです。
ですが、
ある時その杉の木が切り倒されることになります。
八雲はそれが納得いきません。
そして、
杉の歌まで詠んでこれを止めようとしますが、
無理だったようです。
八雲はまもなく西大久保へと引っ越しいたしますが、
これが原因だったのではないかといわれております。
八雲は
自然とそれに根差した伝統的な日本の生き方をこよなく愛しておりました。
八雲はそういったものが急速に失われつつあった明治日本に対し、
幻滅を強くいだいていたようです。
●教育者小泉八雲
ちょうど西大久保に越してくるあたり、
八雲にはまた一つショッキングな出来事が起こります。
なんと7年間務めあげていた東京帝大から突如としてクビを宣告されてしまうのです。
しかも、そのやり方がよくありません。
なんと
いきなり自宅に手紙送付です。
八雲は激怒。
学長室にどなりこみます。
当時政府は、
維新開花以来のお雇い外国人による国内への地ならしが終わり、
これからはそこから育った日本人による教育へと方針移行させることとなっておりました。
まあなんという手前勝手の非人情。
これにより一層の大きな声で異を唱えたのはほかあろう、八雲の教え子たちです。
彼らの多くは八雲に心酔しており、
かかる理不尽に、
と、学校に対して結託し、留任運動をおこします。
生徒らは八雲の自宅にまで遺留の相談に訪れますが、八雲は応じません。
とたんに気が変わった学校側もやはり「遺留」をお願いしますが、八雲先生はきれいさっぱりスルーです。
こうしてその年度で八雲は退任となり、
かわってここに英語教師となって赴任してきたのが、
あの夏目漱石です。
気の毒なことにこのシビアな変わり目に教壇に立ち、
叛骨丸出しの生徒たちの多くは「夏目ごとき」とあなどっております。
ただでさえデリケートな夏目先生。
しかし、
その確かな語学力に生徒たちも次第に認めるようになっていったようです。
ちなみに、八雲は一年の浪人(といっても作家活動などをこなしておりますが)の後に、
早稲田大学に講師として招かれます。
八雲先生、
東大では浅野和三郎、川田順、小山内薫ら。
早大では北原白秋、若山牧水、石橋湛山ら。
が教え子です。
この人は文学者としてだけでなく、教育者としても超一流でありました。
●きょうのまとめ
小泉八雲は
時代の境目
そして、
洋の東西を
生き抜いた漂泊の文人です。
八雲の場合は、
当時世界中を席巻しつつあった
西洋近代的なものを
便利なものを
合理的なものを
画一的なものを
強いものを
あまり好まなかった替わりに、
前近代的なものを
東洋的なものを
不便だけれど
迷信的だけれど
情趣のあるものを
多種多様なものを
いたいけないものを
大変に好みました。
そこには彼の生い立ち自身も大いに影響しておりますが、
さにしても現在、
いよいよ発達してゆく文明社会ですが、
その中でいて”真の幸せ”とは何なのか。
“かつてのもの”
にも素晴らしいものはたくさんあります。
そういったものをいつ知れず置き去りにしないように。
私たちも気を付けてまいりたいものです。