
日本人にとっての日本刀を語る人
【100人duet NO.12】
日本刀を鑑賞するときのカツヤさんは、ここにいるのにいなくなる。
姿カタチはここにあるのに、心がどこか遠くに行っているのだ。
彼によると「刀の向こう側にあるものに思いを飛ばしている」のだそうだ。
日本刀は数百年という時を経ても、変わらずその美しさを残す数少ない存在である。
武器であり、権力の象徴であり、信仰の対象であり、芸術品でもあり。
「日本刀とは」と安易に定義するのをはばかられるような存在感を醸し出す。
それを「日本人の魂そのものじゃないかな」と表現するカツヤさんは、一振りごとに違う「顔」を持つ日本刀の前に立ち、どんな時代を生きてきたのか、誰がどんな思いで使ってきたのか、誰の手を経て誰に渡っていったのかを想像するという。
それはたぶん、いにしえの人々との対話だ。
日本刀をひとつの装置として、時代を超えて、目に見えない世界を自由に行き来する。
うらやましくなるほどいい時間だと思う。
もし、「日本刀はなんのために使うのか」と問われたら、カツヤさんは迷わず「護るため」(まもる)と答えるという。
「日本人は奪うという発想ではなく、護るために使うんだよね」
「踏みにじられてはならないものを踏みにじられたときに」
「『忍』の字は心をはずせば刃(やいば)になるよね。人は誰もが凶器を持っていて、心でそれを抑えているんだと思う。心っていうのは理性とか倫理観とか道徳観かな」
時に血塗られることもある日本刀が、神々しいほどの輝きを放つのは、使われる目的が尊厳を守るためだからなのか。ただ奪うことが目的なら、あんなに美しい姿にはならなかっただろう。そんなふうに思える。
ところで、幼少期に初めておじいさんから見せてもらった日本刀が「戦争に持って行ったものだよ」と教えられたときから、カツヤさんには「戦うってなんだろう」という思いが芽生えたらしい。
だからなのか、彼はよく戦っている(ように見える)。なにと戦っているのかはわからないけれど、彼の戦い方は「勝つ」ためではなく、「負けない」ことを大事にしているように見える。もっというと「屈しない」だ。
私は友人としてその戦いぶりをつらく感じることがあるが、彼の日本刀観を聞いて、それがいちばん彼らしいのかもと思った。
護るべきものを護っている。
きっと本望なのだ。
そんな不屈のサムライ魂を発揮するカツヤさんだが、刀の芸術性にも関心が深い。
鍔(つば)に彫られた日本の春夏秋冬、和歌や俳句の世界観、中国の故事。
それらを表面と裏面で使い分けて表現する物語性。
人はこんな手仕事ができるのかと驚愕するほどのこまやかな目貫。
「刀装具はどれも観る側の知識と教養をあらわにするよね。僕は知らないことが多すぎる」
そう言いながら、刀装具の前でも自由に今と昔を行き来する。
最後に。
信仰の側面から日本刀を見てみると、日本人は太古から自然の中に神を見てきた。
日本刀は鉄と火と水と空気でつくられる。神の像を持たない日本人が、日本刀に畏敬の念を込めてきたのは想像に難くない。
「時代を超えて残ってきたものは、誰かが残そうと努力してきたものだ」とカツヤさん。
いにしえの人々が日本刀という形にして残そうとした本質とはいったいなんだろうか。