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ニュージーランドでの出会い

こんにちは、戦うヨメです。
仕事&夏休み中の子供の世話と家事でバタバタな日々を過ごし、ぜんっぜん1人の時間なくて死んでました😇

はー頑張った自分。

もちろんオットは全く何もしないので、子供を寝かしつけた後も家事に追われる為ゆっくりできる時間など微塵もなく♡
ドラマの予約ばかり溜まっていく現象♡

もともと一人時間がないと気が狂いそうになるタイプの人間なので、子供の長期休み中は後半になると魂がどっか行ってます。

仕事は変わらずありますが、やっと夏休みが終わり少しはホッとできます。

ーーでも、夏休みより何よりお盆でオットが家にいた時が一番大変だったw

昔みたいにあてもなくカメラだけ持って旅に出たい…と毎日思いながら、片付けても片付けても片付かない魔法の汚部屋の片隅で白目剥いて抜け殻になっていました。

またニュージーランドへ行って、あのゆっくりと流れる時間を体感したい。
そう考えていると、当時の色々な事を思い出しました。

ここにはオットとのことだけではなく育児や趣味、そして私の過去の経験についてなどを書いていこうと思っているので、今回は17歳の頃に留学した時の事を書きたいと思います。

英国の不思議な魅力

私は昔から、好きだと感じたものは英国イギリス所縁ゆかりのあるものばかりでした。

童話WINNIE THE POOHくまのプーさん,
Peter pan ピーターパン,
Alice's Adventures in Wonderland不思議の国のアリスが大好きでした。
ページを捲るたび、絵から想像する世界観にときめき、
ビッグベン、ダブルデッカー、ユニオンフラッグなど英国の文化を象徴する物などは見るだけで心が躍りました。

図らずも、それらが全て英国にまつわるものだと知った幼き日。
英国という国に不思議な魅力を感じた事を覚えています。
そしていつか英国に永住すると決めたのです。

小学生の頃粘土で作った近衛兵&ティーセット

中学に入ってからも、相変わらず好きな音楽やファッションなども全て英国に関連していました。
英国関連と知って好きになるのではなく、気づいたら好きな物事が英国に所縁のあるものだった、という事がとにかく多かったです。

当時インターネットで国際的なペンパルを募るサイトがありーー普通にアドレス載せてた。今じゃ絶対ありえない。平和だったなあーー
そこで英国人やヨーロッパ人の友達が出来て、毎日PCメールでやり取りし、月に一回くらいの頻度で文通をしていました(その当時お互いの国で流行ってるキャラクターグッズや音楽CD等を送りあったり、知らない世界を知る事が出来るのが楽しかった!)

そして次第に、日本語には翻訳されていない英国のあの本を読んでみたい、とか、あの英国映画を、誰かが解釈して翻訳した字幕や吹替ではなく、自分で理解したい。
そんな気持ちを抱くようになりました。

私はいつも、翻訳された映画や小説などを観たり読んだりする時、訳した人の目線を通して観たり読んだりしていると感じていました。異なる言語で全く同じニュアンスの表現って、実は意外とないのです。近い表現はあっても、状況と照らし合わせるとどこかしっくりこなかったり…。翻訳者によって全然違う解釈になるので、翻訳とはとっても繊細で重要な作業だと思っていたので、初見で先入観のない状態で、自分の感性で理解できたらいいのに、と感じるようになったのです。

日本の学校や英会話スクールで習う英語は、アメリカ英語やアメリカンアクセントばかりでした。

14歳の時に初めてイギリス国籍の方と会話をする機会がありーー会話と言ってもブリティッシュアクセントの強い彼の英語を私はほぼ聞き取る事が出来ませんでしたがーー…同じ意味でも単語や表現自体が米国と英国で相違があり、理解出来ない事が多く、学校での英語の成績は良かったので思ってみなかった事にとても落胆しました。

イギリス英語を学びたい

そういった経緯いきさつから私はイギリス英語を学びたいと強く思うようになりました。

私の住んでいた地域には、イギリスへの留学制度がある高校は少なく、ひとまず高校では英語力をつけることを優先とし、渡英は先送りにしました。

そこで私はAUSオーストラリアNZニュージーランドに提携校を持つ高校に進学し、そのどちらかの国に留学しようと考えました。

この両国は英国に植民地として統治されていた歴史的背景から、他の英語圏の国に比べブリティッシュアクセントや英国文化の名残が見られます。

そうして私は、AUSとNZの両方の学校と姉妹校提携を結んでいる地元の高校を受験し、そこへ進学することになりーー特別進学コース内の国際文化科に入らなければ留学は出来ないので頑張ってなんとか滑り込みましたーー留学という目標を胸に、より一層英語学習に力を入れました。

毎年、国際文化科から交換留学生として、オーストラリアの学校へ一名、ニュージーランドの学校へ一名、計2名留学していました。

留学の費用はほとんど学校が負担してくれる為、半額以下の代金を支払えば8ヶ月の短期留学をすることが出来ました。

立候補者多数の場合、普段の成績を考慮し、問題がなければ英語でALT教諭と面接をする事になります。

ただ、一年生は立候補は出来ますがこれまで一度も選ばれた例がない事から、表立って1年生からは選ばないとは言わないものの、恐らく2年生か3年生から選抜すると決まっているのだろうと生徒もわかっていました。

一年生の年に一応立候補はしましたが、やはり私を含め誰も同学年からは選ばれませんでした。

国際文化科から立候補者を募るのですが、私が二年生になった年は他に4名の立候補者がいました。

大嫌いな数学が足を引っ張りまくる

数学が大の苦手で、毎回テストは一桁か0点だった私。もちろん通知表は1です。10段階評価の、1です!笑

私は常々思っているのですが、教師という職についている方は、もともと勉強が出来た人か、努力したら出来るようになれる・・・人のどちらかだと思います。
自分だって最初はできなかった、と言う人はたくさんいます。
でもそんな事わかっています。
私が言いたいのは、

勉強は努力さえすれば出来るようになる

と思っている時点で、私のような人間を理解してもらう事は不可能だということ。
要するに、"学校の先生"という時点で、この部分に関しては絶対に分かり得ない。

私にどれだけやる気があって、素晴らしい先生にどれだけ丁寧に教えてもらい、そしてそれを真剣に聞いて、どれだけ必死に勉強しても…100点が満点のテストで、よくて10点、悪くて0点なのです。こんな経験をした方は教師の方々の中には皆無であろうと。

私は愕然とした歴代の先生方の顔が忘れられません。あれだけ教えてもらったのに、出来なかった。放課後残って先生が教えてくれた内容も、解き方も、わかってるし説明出来る。
あれだけ教えたし大丈夫だと思ったのに…どうして答えを書かなかった?
と、失望される事がとても辛かったです。

泣きながら徹夜で勉強しても結局ほとんどの問題が不正解なんて、絶対信じてもらえません。要領が悪くて勉強の仕方が良くないとか、勉強する範囲を間違ってないか…とか、きっと学習方法について言及されるでしょう。しかし、そもそもがそういう問題ではないのです。

暗記は得意なので、公式は誰よりも多くの公式を早く覚えていたし、正確に言えました。
そしてどういう計算をして、何をxに当てはめ、yは何になるのかもわかる。どうしてそう求めるのかも、理屈はちゃんと理解できるのです。

ただ、計算が出来ない。

式まではかけても、計算が出来ないから答えを書けないのです。
式まで書いて、=のあとの答えだけがわからず、=から後は、いつも書いていない。

わざとそうする事で反抗している
大人の気を引こうとしてる
心に問題を抱えてる
やる気がない
どうしてここで諦めたのか
平均点を著しく下げる目的だ

このような事を…教師から何度言われたことか。決まってどの教師も訝しげに眉を顰めて…とにかく嫌なものを見る目で私を見ていた事をまざまざと思い出せます。

答えの求め方はわかっている。あとは単純に計算し答えを出すだけ。でもそれだけが、どうしてもできない。選択問題で奇跡的に正解したとしたら点はもらえるけれど、それ以外の部分では点など取れません。0点です。

ADHD、学習障害、多分そんな感じなんだと思います。昔から私は整理整頓が苦手で忘れ物は多いと言う次元じゃないくらい。だからきっと何かあるんだろうなと昔から思っています。

多分今の時代ならどこかのタイミングで誰かに気付かれ、それなりの対応があるんだろうなと思いますが…昔はそんな事理解すらされません。

話がそれましたが。
そんな事もあり、国語と英語の成績はとても良かったのですが、数学があまりにも低すぎるという事で、唯一私だけ交換留学生になるための選考にすら、参加出来ないと判断されました。

面接を受けられる生徒に選ばれなかった私は、教頭先生に話しに行きました。

数学はできなかったけど、お願いだから面接を受けさせて欲しい。落とすかどうかは私の面接を見て判断して下さい、と。
そして私は留学するためにこの学校を受験しずっと英語を頑張ってきたのでどうか英語力を見て欲しいと伝えました。それすら見てもらえないで落とされるのは悔しいという気持ちや、
良い点をとれなかった自分が悪いのは百も承知の上だけどどうか考慮して欲しいと伝え土下座しました。(マジで泣きながら土下座した)

「ヨメ、お前の熱意は伝わったから顔を上げろ」

と、教頭先生は言いました。

「本当に数学だけだった。数学があれだけ取れてなくても他の生徒の3教科の総合点とそんなに差がないくらい英語と国語の成績はとても良かった」

と教えてくれました。

「ただ、留学をしたいと言う気持ちはみんな同じだから、特別扱いするつもりはない。面接を受けることは許可するけど、評価については全てジョン(ALT)に一任しているし、彼は生徒の成績に関しては何も知らない。もちろんこうしてお前が直談判しにきた事も、私がそれを受けた事も公言するな。全てフラットな状況で面接を受ける形にしないと他の生徒に示しがつかない。」

そう言ってくれ、私は教頭先生に心の底から感謝しお礼を言いました。

ちなみに、この様な壊滅的な計算力で何故特別進学コースへの受験に合格出来たか…も、この場合と全く同じで、数学以外の受験科目で合格点をとれたからです…(最初から数学は捨てていました)

熱意と勢いだけで留学を決める

そして私は英語での面接で熱弁し、無事ジョンをドン引きさせ、NZ留学への切符を手にしました。

それからNZに渡るまでの数ヶ月間は、それはもう夢見心地でした。

ますます英語学習にのめり込み、放課後は当時業界最大手と言われたピンクのうさぎのCMでお馴染みの(色々ある前のw)英会話スクールでネイティブの英語に触れ、インターネットで知り合い、仲良くなったイギリス人の女の子を始めヨーロッパ各国の友達とメールで交流し、とにかく毎日英語漬けになりワクワクしていました。

その頃私の所属する国際文化科の同じクラスに、交換留学生としてNZの姉妹校から来ていたフィオナと帰国のタイミングに合わせ、私も一緒にNZへ渡り、彼女の在学するカレッジへ通うことになっていました。(そうすると引率の先生の旅費は一往復で済みますもんね)

NZは小さな島国で、地形は少し日本に似ていて親近感が湧きました。

North Island北島
South Island 南島に分かれています。

私は南島の湖水地方ワナカにホームステイをしていました。Lake Wanakaワナカ湖のほとりにあるダウンタウンから、徒歩15分くらいのところにあるカレッジに通っていました。

学校からダウンタウンへは徒歩で行けましたが、私がホームステイしていた家は、カレッジから徒歩だと1時間以上かかる場所にありました。
その為毎朝スクールバスに20分程乗車しカレッジに通っていました。
帰りのスクールバスは15時15分のバス1本のみなので、授業終了後すぐバスに乗り込まないといけないのですが、そうするとクラスメイト達と放課後におしゃべりしたり、寄り道したりと楽しく過ごす時間はないので、私は毎日1時間以上かけて歩いて帰っていました。

ファンキーなジェシーおばさんの素敵な言葉

湖畔にあるダウンタウンには、私のお気に入りのベーカリーがありました。ガラス張りのショーケースにはミートパイやサンドウィッチ、マフィンなどが所狭しと並べられており、どれもとても美味しいものばかりでした。

ここの女性店主のジェシーは60代くらいで、赤く染めた髪をブレーズに編み、その編み込みの部分にたくさんのキーホルダーやストラップをひっかけていました。
私はそんなファンキーでエキセントリックなジェシーが大好きでした。
放課後にこのベーカリーでミンスパイやチキンパイを買い、彼女と軽く言葉を交わすのが私のひそかな楽しみでもありました。

日本に帰る前日、私は、ジェシーに着物を着たハローキティのストラップをプレゼントして、帰国することを伝えました。彼女は私の帰国をとても残念がってくれました。
そしてそのストラップの贈り物を彼女はとても喜んでくれ、すぐ自身の髪の毛につけ、

「またひとつ私の宝物が増えた」

とご機嫌でした。

「人生は誰のものでもない、自分のもの。
やりたい事を思いっきり楽しんで!」


別れ際、彼女からもらったこのエールは、私の心の栄養となり根底に存在し続けます。

子供の頃から心の動くままに生きていた私は、好きな服を着て、好きな事をして、"大好き"の欠片をかき集め、そしてそれに囲まれ、そうして生きてきました。
右に倣えで周りと同じであることを美学とする日本では、変わった子というレッテルを貼られてしまう事が多く、其処はかとない窮屈さを感じていました。

Kiwi(NZ人の事)は一般的な日本人の人達よりも、他人のすることに興味がないので、そういった意味では自由ではありました。
ただ、私は異国の地の田舎街ではそこそこ珍しいアジア人でした。好奇の目にさらされることはよくありましたし、同じ学校の生徒に心無い言葉をかけられる事も。何より不自由に感じていたのは、私の英語のアクセントがわかりづらく伝わらない時、顔をしかめられる事。
それが嫌で、話したい事があっても発音に自信のない単語が出てくる時、口を噤んでしまっていました。

だけど、ユニークで、自由で、エネルギッシュな彼女に激励された時、心の底から勇気が湧いたのを覚えています。

周りにどんな目で見られるか気にするばかりではもったいない。自分の人生を全力で楽しんで生きたもん勝ちなんだ、と改めて思わせてもらえた言葉です。

ー今この記事を書きながら、ジェシーとあのお店のミートパイが、とても恋しい。

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