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林芙美子文学賞二次通過「蟻の王国」後編
完全に朝になると、男の目の下には濃い黒色をした隈が、まるで化粧でもしたかのようにくっきりと浮き出ていた。今日は、神田と男が初めて会う日、つまり、世間一般的に言わせるとデートの日だった。男は洗面台で自分の顔を見ると、思いきり冷水で濡らし、ついでに頭も濡らし、最後に両手で頬を挟むように叩いた。シャワーを浴び、朝食を食べにリビングへと向かった。軽めの朝食を食べながら
「今日も昼は要らないから」
と母親に伝えた。
「あら、そうなの。また榊くんと?」
「いや、同僚、というか、まあ、とにかく、人と会うから」
「そう、分かったわ」
食べ終えた男は急いで着替えをすると、車で待ち合わせ場所まで向かった。待ち合わせ場所は、日常から一歩でも抜け出すことのない、ドラッグストアの駐車場の端だった。駐車場まで来ると一人の女が立っていた。男はその女の顔を数回見たことがあった。しかし話をしたことは一度もなかった。男は車内でフロントガラス越しに空を見た。昨日とは打って変わって、今にも雨が降りそうなグレーの色だった。
女の近くに車を停めると車から降りて彼女に近づいた。男の気配に近づいた女は、下に向けていた顔をゆっくりと上げ、男の顔を捉えた。小奇麗だが美人というほどでもない、幸の薄そうな血色のない白い肌に、奥二重の目、鼻は主張しておらず低めで、唇もまた薄めで主張はしておらず、薄いピンク色のリップが遠慮がちに塗られている。
男は繋がっている視線を切る勇気もなく、近づいてきた女に話しかけた。
「神田さん、ですか?」
「はい、春日さん、ですよね?」
高めの女の声は、空気を多く含んでいる。
「ええ」
「きょ、今日は、ありがとうございます」
「とりあえず……ここじゃあなんですから、街のほうにでも行きましょうか」
男は助手席の扉を開けると、そこに座るように腕を伸ばした。彼女は遠慮がちにお辞儀をし、「失礼します」と言って車に乗り込んだ。それまで無臭だった車内に、微かな花の香りが運ばれてきた。
男はあらかじめどこに行けばいいのか、大学生からアドバイスを貰っていた。「街中に、ちょっと落ち着いたカフェがあるんすよ、そこ、絶対二人の雰囲気に合ってると思うんすよね」と大学生は言っていた。
コインパーキングに車を停めカフェまで歩く。その間会話はなく、沈黙ばかりが二人の微妙に開いている間を行き来していた。
カフェは確かに大学生の言う通り、落ち着いていて、カフェというよりは喫茶店という言葉を使って表現したほうが合っている。茶色の木の床に白い壁、照明は白ではなく温かみのあるオレンジ、テーブルや椅子は全て木の素材でできたものを使用しており、店内には淹れたてのコーヒーの香りが漂う。店内にサイフォンが数個あるのが目に入ってくる。
カフェにいる客の年齢層も高めであり、ちょうど男の年齢から年配までがこの場を占めていた。男や女よりも若い者はいなかった。
「えっと、なにがいいですか?」
「あ、じゃあ、コーヒーで」
「じゃあ、僕も、コーヒーで」
注文を終えると、再び二人の間からは声が消失する。カフェに流れている音楽がその空白を埋め、しかしその間男はなにを話すべきか、頭の中では幾多もの言葉が飛び交っていた。しかしそれは次の瞬間に消え去った。
「あ、えっと、今日は本当に、ありがとうございます」
女の声が沈黙を破った。
「あ、いや、僕のほうこそ」
「あ、あれですよね、まずは自己紹介、ですよね。神田紗江です。えっと……地元はこっちで、東京の短大を卒業してからそっちで就職したんですけど、心身を壊してしまって、今パートという形でドラッグストアで働いています」
男は、短大、という単語を聞いた瞬間に手と頬に力が入るのが分かった。
「って、就活の面接じゃないですよね、なんかすごく堅苦しくなってしまって……」
「ああ、全然、いいですよ」
「すみません。……春日さんは、正社員を目指しているとか?」
「ああ、そういうわけではないんです……うちは自営業なんですけど、それだと収入が足りなくて……。だから、夜にドラッグストアで働いているんです。情けない話ですよね」
男は、店内の奥のアップライトのピアノに目を向けた。ピアノの音楽が流れる店内で、しかしその曲を楽しむ術を知らなかった。
「いえ、そんなことないです。立派だと、思います。自営業で働いているのに、そのうえアルバイトもしてるなんて」
女は、手を振った。
「いやあ、立派だなんて、ただ、金がないだけですよ。生活していくには、仕方ないことです」
「いえ、すごく、立派です。わたしなんて、一つの仕事さえちゃんとできないんですから……」
二人の会話を遮るように淹れたての香り高いコーヒーが、マスターの低めの声と共に運ばれてきた。
「本当は、わたしもちゃんと働かないといけないんです……。なのに、こんな風で、結局は親のところに帰って来て。それに、今年で二十九になるのに彼氏もいなければ、結婚の予定もなくて。仕事もできなくて、独り身で、ほんと、自分が情けなくて、親に迷惑かけっぱなしで。そんなときに、春日さんと会ってみないかって言われて、わたし、本当に嬉しかったんです」
男はコーヒーを飲みながら、首を縦に振った。
「も、もちろん、すぐに恋人とかそういう関係は望まないです。でも、少しずつでもいいから、距離を縮められたらなあって。じ、実は、前から春日さんのこと知ってて、少し、気になってたんです。同じくらいの年齢ですし……」
「僕を、ですか?」
「ええ、わたし、短大も女子ばかりで、就職先も女性が多くて、ほとんど男性と交流ないままこんな年になってしまって、でも、なんというか、春日さんなら大丈夫だな、って、勝手に思ってて」
「でも、僕、さっきも言った通り貧しいですし。なんせ、モテたこともない、冴えない男ですよ」
「そんなこと。それに、うちだって貧しいです。短大にしか行かせてもらえませんでしたし」
男は、口を結んだ。短大にしか、と言うならば、その短大にさえ行かせてもらえなかった自分の立場は一体どうなるのだろうか、と。
「それに、春日さんとわたし、似ている気がして。雰囲気というか。夫婦って似ているじゃないですか……」
男は言葉を飲む込むかのようにコーヒーを啜った。頭の中には、榊と榊の妻とその子どもが浮かんでいた。生まれてきた感情をすべて、苦い飲み物で身体の奥底に押しやった。
「ええ、それじゃあ、ぜひ、知り合いから、ということで」
「ほ、ほんとうですか?」
女はさきほどまで下げていた眉を上げ、男の顔を見た。
「もちろんです」
男は、またコーヒーを啜った。
その日は、他になにかをするわけでもなく、一時間ほどカフェで過ごしただけだった。女をドラックストアまで送ると、そのまま帰宅した。
その晩男は蟻に襲われる夢を見た。何百という黒い蟻が男に迫り、足元まで到達したかと思うと脚を登り始め、ついには身体全体が、頭のてっぺんまで蟻に覆いつくされ、払っても払ってもどんどんと新しい蟻が上って来、ついには巨大な巣の中に引きずり込まれて行く。夢は感覚までもがリアルで、男が声を出して飛び起きたときにはシャツが濡れて皮膚に貼りつくほどに汗を掻いており、手でおでこを拭うとびしょりと水分がついた。男は部屋にある蟻の巣に目を向けると、自らの手で崩壊させた。いや、その中に殺虫剤を撒き、一匹残らず亡き者にし、全てを土の中に埋めた。
しかし日が経つにつれ、蟻を始末したことに対しての後悔に苛まれ、新しいキットをすぐに注文した。
数日後届いた。
男は早速組み立てた。蟻を捕まえに公園に行った。今、男の心の中は晴れの日の海のように落ち着いていた。男は蟻を捕まえるために作ったペットボトルの捕獲器を蟻の巣の近くに置いて立ち上がった。その先にはA地区が見えた。A地区は今日も、B地区とは違った優雅な雰囲気に包まれていた。次の土曜日、男は榊と会う約束をしていたが、中学のときのような気持ちはもう彼方へと消え去ってしまっていた。
十分ほど経過し、ペットボトルの中に大量に蟻が入っているのを確認すると男は早速家に戻りキットの中へと蟻を入れていった。蟻は男にとって犬や猫と同じく、家族の一員だった。いや、家族ではない、男にとってこのキットは男の欲望がすべて詰まった、誰にも破壊されることのない帝国だったのだ。
土曜日、男はA地区でも自身の住むB地区でもない、市の中心街に来ていた。休日の今日は人が大勢いて、普段は閑散としている街は賑わっていた。その中に、榊と男の姿も当然の如くにあった。男二人は適当にカフェに入るとアイスコーヒーを注文した。すでに夏はすぐそこまで訪れようとしており、人々は軽装だった。メニューには、冷製パスタ、や、アイスの盛り合わせ、など、『季節限定』と書かれたものもあった。
「実は、この前二人目が産まれたんだ。それをぜひ、直接会って知らせたくて。妻なんて、早速習い事なんかのことを考えていて。気が早いよ」
「そうだったんだ、言ってくれれば出産祝いを持ってきたのに」
「いいよ、そんな気遣いは」
男の耳にそれは、『いいよ、君はお金がなくて大変だろう? 僕の周囲の人間は皆余裕がある人たちだから、君はそんなことを気にしなくていいんだよ』という変形した言葉で入ってきたのだ。それに、そもそも二人目というのも、習い事というのも、男の耳にはいちいち引っ掛かる言葉だった。それでも男は、自分の中で生まれてくる言葉を処理しようとした。
榊は運ばれてきたコーヒーを飲んだ。露わになった手首には、以前とは違う腕時計がついていた。
「腕時計」
男はつい、声を出した。
「腕時計?」
「ああ、いや……いいの、してるなあと思って、同窓会のときにしていたのもいいと思ったけど」
「父に、身だしなみとしていいものを着けなさいと言われてて。春日くんは普段、腕時計は?」
「いや、僕はほとんど家にいるから」
春日にドラッグストアで働いていることを言っていなかった。言う必要などないと思っていたし、言うことにより同情されるのも男のプライドが許さなかった。榊がそういう感情を自分に向けることは、嫌でも分かっていた。
「たしかに、家にいれば時計はいつでも目に入るし、スマホだって見られる。それに、今は結構スマートウォッチを使っている人が多くて、僕も本当はそれを使いたいんだけどね。心拍数やストレス度合いも計測できるし」
「それはぜひ欲しいね。でも、君なら一つや二つ買えるんじゃない?」
「普段アナログのものをしていると、結局それを手に取ってしまうというか。針が結局時間を確認するには分かり易いかなって」
男は榊の話を聞きながら、周囲の人々に目を向けていた。カフェの中は、若い者同士、特に女性同士が多く、若い男性同士すらいないのに、自分たちのような三十になった男がここにいることに、だんだんと恥が生じて来たのだ。
男はアイスコーヒーを一気に啜った。コップの水位が、一気に減る。榊はその様子を見て、「どうしたの? もしかして、このあと用事でも?」と男に訊いた。
「いや、その……なんというか、もっと、こう、喫茶店に入ればよかったなあと」
男が言うと、榊は辺りを見渡し、すると急に顔が赤らんできて、「た、たしかにそうだね」と、男と同じようにコーヒーを一気に口の中に入れ、ごくりと音を立てて飲み込んだ。男二人はコップの中が空になるとすぐにカフェを出た。
二人は街中を歩いた。男の頭の中は、飼っている蟻のことでいっぱいだった。いや、蟻のことを考えるように意識していた。榊の腕に着いている時計も、身に纏っている洋服も、汚れのないスニーカーも、すべてを視界に入らせないようにした。しかし榊が男に話し掛けると、それは一瞬にして無意味な行為になる。太陽の光で榊の腕時計が強く光る。その瞬間、榊の質のいいスーツが、磨き上げられた靴が、高層のマンションが、そこから見下ろす街の景色が、その家で食べたキッシュが、ローストビーフが、榊の妻が、子どもが、次々と脳内に、まるでシャボン玉のように浮かび上がり、体温は上がり、身体の毛穴も広がり、男を道のど真ん中で立ち止まらせた。それに合わせて、榊も同じように歩くのを止めた。
「どうしたの?」
男は、少し前にいる榊を見た。
「正直、僕のことをどう思ってる?」
男は言った。
「え? どう思ってるって?」
「僕はね、……僕はね! 君といると、惨めに思えてくるんだよ。なにもかもが違う。中学のときから。だけど中学のときの僕はまだその根までをも理解していなかった。どこかで、君と僕には共通点があるものとばかり思ってた」
榊はなにも言葉を発さずに男の顔を見ていた。
「君が僕のことをどこまで知っているかは分からないけど、僕は、高校を卒業してから大学には行かずに家を継いだ。そもそもうちには、大学に行かせる余裕なんてなかったし、成績を上げるために通う塾代もなかったから。まだ僕が成績のいい子どもだったら、奨学金でも借りて大学に行かせたかもしれない。だけど僕は、君と違って頭もよくなかった。中学のときにパソコン部に入部したのだって、運動部でかかる遠征費やら道具に払う金がなかったからだ。それに、君には言っていなかったけれど、今もうちはうちの自営業だけじゃ食べていけない。だから僕が、夜にドラッグストアで働いてる。睡眠時間も自分のやりたいことも削って。自分の時間なんて、ほとんど取ることはできないよ。分かる? 君たちのように生まれたときから恵まれたA地区の人間には反吐が出そうなんだ。榊くん、君だって結局同じだった、A地区はA地区の人間だ。僕のことをその目で見下しているんだろ?」
男が話をしている途中、何人もの人が振り返って男の顔を見て、あるカップルはひそひそと話しながら通り過ぎ、ある男はスマホを男に向けて写真を取り、若い女はわざと男に近づかないように迂回した。それでも男は、そんな者たちには脇目もふらず、顔色一つ変えないで、榊のことだけを見ていた。男の目にはもう、榊以外のなにものも映らず、特に榊の腕時計の作り出すまばゆい光が男の目を奪っていた。
「そんなこと一度だって思ったことないよ。春日くんは今でも大切な僕の友達で、そこにはもちろん壁なんてないし」
「そうだろうね、君はよかれと思って僕に近づいて、余ったキッシュなんかを持たせて、腕時計や最新家具で揃えられた家なんかを見せつけて。きっと心から楽しいだろうさ、僕のような下の人間と関わることができて、自分が優位に立てるんだから!」
男の声はだんだんと大きくなり、男の顔を見る通行人の人数もまた増えていく。立ち止まり、ひそひそと話しながら見る者たちの声が重なり、辺りに騒々しさを生み出している。
「僕は本当にそんなこと思ってないよ」
「同じように裕福な人間と結婚もして、子どもまでいて、この街を見下ろせるマンションに住んで、さぞかしいいご身分だ。僕は一生あの家から出られない。一生、君に見下されながら生きていくんだよ」
「春日くん、一旦落ち着こう、ね。少し、疲れているんじゃないかな……?」
榊が男の腕を掴んだ瞬間、非常に強い力によって払われた。
「触るな」
男は、身体を九十度回転させて来た道を戻る。男の地面を蹴る音は強く、磨かれていない革靴のかかとが強くコンクリートを打っていた。しかし聞こえてくるのは、「こつこつ」という音ではなく、鈍い、地面を擦る「ざっざっ」という音だった。榊はその場から動けずに、遠くなっていく男の姿をただただ見つめるばかりだった。
男は家に着くと、蟻のキットの目の前に座った。まだ巣は未完成で、ある蟻が穴を掘り、ある蟻が掘ったことで出たカスを穴の外まで運び、巨大な巣は作られて行く。多少さぼるものがいても、ほとんどの蟻が同様に働いている。キットの中では、平等な社会が形成されている。そしてその蟻の社会を作り上げたのは自分だと、男は榊といるときとは違う、『生気のある』目をして蟻たちを見ていた。そのとき男の意識を蟻から引き剥がすようにスマホが鳴った。男は確認した。春日ではなく、神田からのメッセージが表示されていた。
『今度、また、どこかに行きませんか?』
酷く機械的な文字を見て、男はすぐに返信をした。
『ええ、もちろんです。喜んで』
『ありがとうございます』
『シフトが出たら、決めましょう』
『はい、そうですね』
炭酸水の中で、生まれては消え、生まれては消え、を繰り返す気泡のようにテンポよく、やりとりは進んだ。
男は溜息を吐きながら、蟻ではなくその先にある窓を、そこにまるで絵画のように描かれている雲を眺めた。雲は空全体を白く染めていた。しかしその白は、その場に輝きを与えるものではなく、グレーに近い、光を覆うだけの、蓋としての白だった。
男はその晩、久しぶりに部屋の掃除をした。棚に置かれている中学の卒業アルバムを数年ぶりに掴むとダンボールの中に仕舞い、しかし数分後に再び手にすると硬い素材の表紙を捲った。自分のクラスのページまでくると捲る手を止めて、三十数人の顔写真の中から自分の顔を見つけた。その顔に指をあて、他の男子生徒とは違い、その当時のはやりの髪型をしていない自分の頭を撫でた。その次に榊の顔に目を遣った。その頃の榊も男と同様に、真面目くさった、というよりは、お洒落というものに無頓着である髪型をしており、眼鏡までかけ、しかし違うのは、肌質だ。男の肌は、写真からでも分かるくらいにざらつきがあり、一方の榊の顔には凹凸やニキビなどなく、白くつるんとしており、その肌からは栄養の行き届いたバランスのいい日々の食事、それを作ってくれる彼の母親の目元に力の入っていない顔、そういうものが読み取れる。また、表情だって異なっていた。クラスのページだけではない、修学旅行や遠足、部活動、いろいろな写真に写る二人の顔には、明確な色の違いがあった。榊の笑顔は作られたものではなく、しかし男の顔は、いつだって無表情か、もしくは無理矢理頬を上げた不自然な笑みで、写真を見ていると中学のときと同じような笑いが込み上げてきた。
電話が鳴った。アルバムを見るのを邪魔するかのように、甲高い機械音が部屋の中に鳴り響く。空気を大きく揺らす。胸がざわつく。コウモリが夜の空を我が物顔で飛んでいるのを見たときのように。
本能が鳴っている音が危険なものであることを知らせてくるが、それに抗い電話に出た。「春日くん」と呼ぶ声が、耳の奥の鼓膜を揺らした。
「今、話いいかな? 時間、あるかな?」
男は蟻を見つめている。
「蟻を、飼ってるんだ」
「へ? 蟻?」
榊は揺れた声を出した。
「そう、蟻。よくいる、黒色の、一センチ、もないか。公園とか、花壇とかにいる、よくいる蟻」
「そうなんだ」
榊の声は、揺れたり、変に大きくなったりせず、いつも通り冷静であった。
「蟻の飼育キットっていうの知ってる? それに二十匹くらいを入れて観察してるんだ。最初は、巣もなにもなくて、水色のゼリー、深さ十五センチくらいの、その上を歩いているだけなんだけど、だんだんと巣を掘り始める。ある蟻は掘って、ある蟻はカスを地上まで運んで、ちゃんと役割分担がある。巣を掘っている姿もそうだし、餌を食べている姿も可愛くて。分かる? 蟻は僕の世界の中で生きている」
男はそこまで話すと、言葉を止めた。
「蟻の世界にも役割分担があるなんて知らなかったよ」
男は一瞬、吸う息を止めた。
「僕の家の向こうは、君たちの住むA地区だ。A地区に入った途端、道路は整備されているし、そこに建つ家は広くて奇麗だ。たった数十歩先の地域は、だけど全然異なる。中学の頃の僕は、どうして榊くんならいいと思ったんだろう。分からない。考えても全然分からないよ。こうして今話している瞬間にも惨めになる」
「春日くん、僕は、僕はね、春日くんと友達でいたいんだよ」
「奇麗ごとだね」
「本当だよ、奇麗ごとなんかじゃない、だから、僕の話を」
男は榊の声を最後まで聞くことなく、スマホを切った。
男はキッチンから包丁を持って来ると、アルバムにその刃を突き刺した。抜いては腕を振りかざり思いきりアルバムに刃を落とし、ページを捲って何度も繰り返す。最後、コメントページに唯一書かれている榊の言葉に向かって、刃がアルバムを貫かんばかりの力を込めて落とした。
蟻は、そんな男の姿など捉えもせず、巣の中を歩いていた。ある蟻は動かずに、ゼリーの中に身を置いていた。男がなにをしようとも、蟻は常に『いつも』を生きている。
男は笑った。六畳の部屋の中、声で空間が満杯になるほどに、高々に笑った。天井、壁、床、あらゆるものが男の声を吸収し、しかし吸収されず溢れ出た声は、部屋の中で飛び交っている。「ちょっと、うるさいわよ」と、母親が扉を勢いよく開ける。パンっという扉と板のぶつかる音は、しかしながら笑いを止めることはできなかった。掠れて声が出なくなると、口角だけを上げて、電気も消し、暗闇の中笑い続けた。
二度目の神田とのデートは映画だった。デートだと言うと、男の親は平日の昼間にもかかわらず男を送り出した。映画館は男たちの住む市の近郊にある巨大ショッピングモールの中に入っていた。ポップコーンの匂いで充満されている館内、男は大して興味もない恋愛映画のチケットを二枚買い、一枚を神田に渡した。
十分前に指定されたスクリーンに行くと、他の人はいなかった。上映されてもなお、他の人は来なかった。貸し切り状態の中、男は指定された席からは動かずに、何度も眠りに落ちそうになりながら、二時間かけて映画を観た。
映画が終わるとフードコートに向かった。平日の、しかもまだ太陽の昇っている時間だということもあり、ここも空いていた。うるさく走り回る子どもという存在がいないだけで、まるで休日と同じフードコートだとは思えないほどに静かだった。男はたこ焼き屋から六つ入りのものを一つだけ購入した。席に着くと、その一つをテーブルの中央に置く。
「映画、面白かったですね」
神田が言うと男は「そうですね」と首を振った。男のテーブルの上に置かれている左手は、強く握られていた。「ぜひ、たこ焼きどうぞ」と言いながら、まずは自分が一つを掬い上げまるごと口の中に入れると、余りの熱さに口の中に入れておくことができず、掌の上に吐き出す。
「す、すみません、こんな見苦しい」
「いえ、熱いですよね、たこ焼き。わたしもよく、幼い頃はお祭りのときにたこ焼きを買ってもらって、食べるのに一苦労してました。でも、美味しいんですよね」
「いいですね、屋台の食べ物はなんだか特別な気がします。僕は、屋台で一つしか買ってもらえなかったので、いつもどれを買うか一時間くらい迷ってましたよ。なるべく、お腹がいっぱいになるのを選んでました」
神田は、「うん、うん」と首を振りながら話を聞いている。
「一つ、と言われると、どれが一番いいかってすごく悩んじゃいますよね」
「そう、そうなんです。二つまでは絞ることができるんですが、最後の一つを決められなくて」
「分かります。わたしも、誕生日プレゼントで好きなものを買ってもいいと言われて、当時流行していたゲームと、クマの大きなぬいぐるみで迷ったんです。結局、みんながやってるからって、ゲームにしたんですけどね」
「ゲーム、ですか」
「春日さんは、ゲームはしませんか?」
男と女の目が合うと、男はゆっくりと繋がれた視線を切った。
「ああ……僕は、よく公園で遊んでました。家の隣が公園で、学校から帰ってくるとその公園で蟻とかセミを観察したり」
「男の子、って感じですね」
「はは、ええ」
男の口元には、余計な力が入っているように見え、逸らした視線も、再び自ら繋ぐことはなかった。
二人の間に会話がなくなると男は水を飲んだ。女はたこ焼きを一つつまようじで刺して食べた。すでにたこ焼きは冷えており、男が食べたときの熱さはなく、女はゆっくりとたことソースの味を噛みしめているようだった。
男はコップに入った水をすべて飲み終えると、一度フードコートから見えるほとんど緑色の外の風景に目を向け、音を立てて唾を飲んでから神田に向き直った。神田は、男のいつもとは違う目になにかを感じ、たこ焼きに伸ばし掛けていた手を引っ込めて、太ももの上に置いた。
案の定男は重い唇を控え目に開き、声を発する。
「あの、ですね」
「はい」
神田が男の目を見ると、男は素早く視線から逃れる。頭を掻いた。もう一度唾を飲んだ。
「その……よければ、お付き合い、なんてどうかな、と思いまして、まあでも、自分のような男では頼りないかと思いますし、もちろん断っていただいてもいいんですが」
神田は、男の言葉に目を見開き、口をぽかんと開けた。
「い、いえ、そんなこと。わたしでよろしければ、ぜひ」
男も同じように両目を見開き、彼女を見た。
安心したのか、たこ焼きを二つ同時につまようじに突き刺すと、口を大きく広げて一気に詰め込んだ。
「す、すみません、僕ばかり、食べてください」
女は「は、はい」と言うと、一つ掬って口元まで運ぶ。たこ焼きのソースが、口元に付く。そのとき、子どもが二人の横を通り過ぎた。
「ねえ、お母さん、この人たち、二人で一つ食べてるよ。貧乏なのかな?」
子どもの声に、嫌味などは含まれていなかった。
「やだ、止めなさい」
男は子どもを見た。子どもは目が合うと、「ひえっ」と声を出し、顔を勢いよく逸らして「こわいこわい」と母親の腕を掴む。母親は子どもの腕を掴んで「すみませんっ」と頭を下げて足早にいなくなる。
二人の間には妙な空気が流れる。
「ごめんなさい……、なんだか惨めな思いさせて」
「いえ、そんなことないです。わたしだってただのパートの分際で、贅沢なんてもってのほかですから」
神田は笑っていたが、男は眉を下げて残っているたこ焼きを見つめ下唇を噛むと、持っているつまようじを強く握った。みしっと、男の指につまようじの軋む感覚が伝わり、男は神田の顔を見て「ははっ」と声を出しながら笑うと、コップを手にし水を飲もうとしたが、既に中は空だった。水の入っていないコップからさきほどの子どもに視線を移すと、カップに入ったアイスクリームを食べていた。しかも、一つではなく二つ重なって、男はアイスクリーム屋に目を向けて値段を確認した。アイスクリームは自分たちの食べているたこ焼きより数百円も高かった。
「もう一つ、たこ焼き注文しましょうか? たこ焼きじゃなくても、そこのサンドウィッチでも、アイスでも。そうだ、飲み物なんてどうです?」
「いえ、いいですよ、そんなにお腹も空いてませんし」
「でも」
男は、初めて周囲を見渡した。誰も、自分たちと同じように六個入りのたこ焼きを二人で分けているものなどいなかった。急に肩身の狭い思いが身体全体を支配し、男は片足を小刻みに揺らし始める。
「行きましょう、もう、そろそろ、たこ焼き、食べちゃってください。僕は三つ食べたので」
「あ、はい」
二つ同時に口にたこ焼きを入れると、神田の頬はぷくりと膨らみリスのようになる。中にあるものを必死に噛み砕き、細かくなったものを水で流し込んだ。男は神田が飲み終えた様子を確認すると、空になった容器を捨て早歩きでフードコートを去った。時刻を確認しようとスマホを見ると、メッセージが何件もきておりロック画面を埋めていた。すべてが榊からであった。
男はつい彼の名前を見て舌打ちをした。神田はそれには気付かず、飾られている洋服を見ていた。
男はなにも話さず駐車場を目掛けて一心に歩く。神田はそのあとを追う。サイレントモードにしているはずのスマホがポケットの中で揺れているような気がして、男は立ち止まり電源を切った。
「どうしたんですか? 顔が、白いです」
「冷房が、効きすぎている気がして、少し寒いだけです。心配、要りませんよ」
「そうですか」
外に出ると熱気が二人を襲った。まるで二人が出てくるのを待っていたかのように、熱い風は二人を包み込んだ。神田の髪は風によりぶわっと宙を舞い一瞬視界を遮った。神田は吹く髪を抑えて、風により動いている花壇の花を見る。男は風を浴びると肩の力が抜け、ようやく脚を止めた。そして隣に立っている神田を見ると手を握った。彼女の手は、ほんのりとした冷たさを持っていた。
「すみません、いきなり」
「いえ、恋人同士、ですもんね」
神田は男の手をさらに強く握り返した。男は握られた手に視線を向けて、次になにも装着していない手首に視線を移動させると「腕時計、買いに行きましょう。今すぐに」と建物の中に戻って行く。
歩くテンポは早かった。生き急ぐように、男は大股で一歩一歩を確実に踏み出し、地面を蹴る。男は一人モールの中、人工的な風を作り出していた。さきほどのような強い風ではないが、それは確かに男の身体に当たる。しかし風の抵抗を一切受け流し、歩みを進める。途中、チョコレート専門店の前を通るとき、店員が無料で配っているチョコレートを受け取りすぐにポケットの中に仕舞った。
二階へと上り少し歩いたとき腕時計の売っている店が目に入ってきた。「あ」と言って、男は立ち止まった。そこに飾られていたのはアナログの腕時計ではなく、いわゆるスマートウォッチと言われるもので、その中で一番安価なものを手に取り即購入した。モール内のベンチに座り、スマホの電源を入れすぐに設定すると、手首に装着した。
「かっこいいですね」
「ええ、腕時計、欲しいと思ってたんです。特に……このスマートウォッチが」
男は自分の目の前にそれが来るように腕を上げて、凝視した。神田はもう一度「かっこいいですね」と言った。男は口元を厭らしく上げながら「ええ、かっこいいですね」と繰り返した。
男は神田を家に送ってから、我が家へと車を進めるが、自分の手首に着けている時計が目に入るたびに、「へへへっ」と喉から声を出す。時刻は十七時を少し回っていた。家の駐車場に車を止め降りた男は、自宅ではなく公園に向かった。十七時と言っても初夏の今まだまだ空は水色を保っており、公園に申し訳程度に植えられた花は、光を浴びようと上を向いている。いつもの子どもたちがいた。男を横目でちらっと見ながらも、自分たちの遊びを止めようとはしない。男は子どもたちに近づき「見ろ! 腕時計だぞ。しかも、ただの腕時計じゃない。スマートウォッチだ」と、それを彼らに向けた。
「だからなんだよ、おじさん。腕時計くらいで喜んでるとか、気持ち悪いんですけど」
「いつも気味悪いくせに、近づくんじゃねえ!」
子どもたちは男から走って逃げる。ある子どもは砂場の砂を掴んで男にかける。それでも男は手首を天に向けながら、執拗に子どもたちを追いかけ回した。子どもたちは叫びながら、近づいてくる男から必死に逃げ回っている。しかしそのとき男の母親が現れ、男の、スマートウォッチをしていない手首を掴み家の中へと強制連行した。
「なにしてるの、子ども相手に。みっともない」
「つい、だよ、つい。いつもからかわれていたから」
「もうこんなことはやめてちょうだい。どうするんだよ、もし保護者からクレームが来たら」
男は黙った。グツグツという、液体の煮える音が沈黙を埋め、安いレトルトのカレーの香りが充満していた。男はキッチンを見渡した。最新の家電も、高そうなソファも、見える高層の景色も、なにもかもが自分の家にはない。家の明かりも薄暗く、榊の家の輝くような白さは男の家のどこにも見当たらない。カレーのルーの空き箱、それも、スーパーで売っている最安値のそれ、錆びれた鍋に、ガスコンロ、取れないカビの生えた窓、安っぽい皿、箸、スプーン、男が生まれたときからあるテーブル、椅子、剥がれかけた壁に、染みの付いた床、溜息を吐いた。
男はキッチンから自室に移動した。箱の中で生きている蟻を眺める。お前たちに特別なものをやろう、男は机の引き出しにある汚れのないミニチュアのテーブルと椅子を中に置いた。男はにやついた口元で蟻の様子を眺める。キッチンから香ってくる小麦粉と脂とスパイスの匂いが強くなる。男はモールで配られていた、赤色の紙で包まれている大きめの丸いチョコレートをポケットから取り出し一口で食べた。
「甘い……」
鼻から入ってくる辛さのあるカレーの匂いと、口の中の甘いチョコレートが混ざり合う。蟻が一匹、ミニチュアのテーブルを這う。別の蟻も同じように這う。男は口の中でチョコレートを溶かしながら、狭い床の上に寝転んだ。百七十センチの身長の男が寝転がると、床は埋め尽くされる。
男は寝ながら、拳で幾度となく床を殴る。どんっ、どんっ、どんっ、という音は、徐々に大きくなり、「なんの音っ」と、鋭利な声を出しながら母親が駆けつけた。
「ちょっと、止めなさい。ねえ、止めなさいっ」
しかし母親の声は、男の耳には届かない。
天井を向いたまま叩くことを止めない。一定のリズムで、まるで機械のごとくに、床を殴打し続けている。母親は諦めた。目頭を二本の指で掴むと、足取り重く彼の部屋から去って行った。
男は休日になると、ホームセンターに行き、高さ十五センチほどある奥行きのあまりないプラスチックの容器と、紙粘土と、石膏を購入した。自宅に帰ると早速動画を見ながら、容器に紙粘土で作ったなめくじのようなものを、一つ一つがくっつかないように置いていった。なるべく、動画と同じものを作れるよう、男はときどき映像を止め、自分のものと見比べながら作業をしていく。次は、石膏を練り状にしたものを、容器に流し込む。男の作った紙粘土の道は、石膏に埋まっていく。石膏は数十分もすると固まったのでプラスチックの容器から外し、中の粘土を棒やつまようじを使って取っていく。細かい粘土まで奇麗に取り除き、ようやく今日の作業は終わる。男はそれを両手で持ち、腕を高々に上げ、まるでそれが金メダルであるかのように、天井についている電気の光を浴びさせた。もちろんそれは金のように光を反射することはない。次に、自分の顔のところまで腕を下げたかと思うと、石膏に口づけをする。最後に自分の胸にそれを当て、押し付けた。男の胸に石膏の四角の赤い痕がつくのではないかというほどに強く抱き締め、ついには感極まり右の目から一粒の涙を落した。
できたそれを窓側に置き、乾き切るまで数日待つことにした。
その間、男は暇になると、公園や道路をさ迷い歩いた。なにかに憑りつかれているかのように地面を見続け、近所の子どもが男に向かって腸の煮えくり返るようなことを言おうが、近所の人にその姿を気味の悪い目でじろじろと見られ、おばさんたちの井戸端会議の中心になろうが、両親が止めてくれと頭を下げようが、男はなにかを見つけることを止めなかった。
男と神田は何度かデートを重ねた。榊からの連絡は、もう来なくなっていた。偶に近所のスーパーで姿を見かけるのだが、視界に入った瞬間に姿を見られないよう移動した。必ずと言っていいほど、榊は家族とともに買い物に来ていた。その度に見るのは、榊と、榊の妻の笑った顔で、質のいい服を着た子どもはいつも母親の隣にぴたりとくっついていた。どこからどう見ても、上から、下から、右から、左から、斜めから見ても、榊一家は幸せを纏う家族に見えた。
男は相変わらず、ドラッグストアでバイトをしていた。
今日もまた、大学生とシフトが被る。
「最近、どうっすか? うまくいってます?」
男は、旅行の土産だという『東京バナナ』を大学生から受け取ると、口角の右側だけをにやりと上げ「まあ」と頷いた。
「いいっすね、その顔、今までで一番、輝いてますよ。やっぱり人間、恋愛してるほうがいいんすよ、ね? そう思うでしょ?」
男は言葉を発さずに大学生の目を見た。男の視線は強く、口角はすでに上がっておらず、感情を読み取ることのできない目に大学生は逸らすことができずにいる。男が腕を動かしたとき
「な、なんすか、もう、そんなに見つめないでくださいよ」
と、男から離れた。
大学生は東京バナナをもう一つ男に渡した。「いいよ、誰かにあげなよ」と、男はそれを受け取らなかった。大学生は「そうっすね」と、ははっと乾いた笑い声を出しながらロッカーに仕舞った。
それは五度目のデートのときだった。
「すみません、話が、あるのですが」
市の外れの、遊園地の併設された無駄に広さのある植物公園に来ているときだった。夏の今、公園は若々しい緑の葉をつけた木々で囲まれており、色の濃い花がところどころに植えられている。だだっ広い敷地内で、何組もの家族がテントを張り休日を忙しなく過ごしていた。
男と神田は噴水の前を歩いていた。太陽に照らされた水は、一帯に光を与えている。
「話、ですか?」
神田は立ち止まった。男は数歩、神田より進んでから足を止めると、向けていた背をくるりと回し彼女と向き合った。今日もその腕には、あのときに買ったスマートウォッチが光っていた。
「ええ、その……僕たち、結婚しませんか。あ、いえ……もちろん、いい返事を聞けるだなんてことは、思ってないんです。もし、よければ、の話で」
「け、結婚ですか」
神田は、眉を大きく上げた。
「はい……って、すみません、いきなり。ただ、恋人、と言っても、それがどういうものなのか、恋人という関係である今も恥ずかしながらピンとこず、でも、家族、なら、なんとなく想像できるんです。その……結婚をしても、神田さんには働いてもらう必要があるとは思うんですけど……。やっぱりこんな僕じゃ、頼りないですかね。他にもっといい人がいるかもしれないですよね」
神田と向き合っていた身体を噴水へと向けた。水を見ると目を細め、さらに身体を回転させて神田に背を向けた。神田は下を向いた。唇を噛んでいた。手を強く握っていた。一度男の背中を見ると、再び下を向き目を瞑って口を細かに動かし始め、一度緩めた手を再び握りしめる。手は震えていた。唇を舐めて乾燥した皮膚に潤いを与える。男は前を向いたまま瞼を下ろし、すべての動作を止めていた。神田は後ろから男の下がっている腕を掴み「はい」と言った。神田の細かな振動が伝わり、しかし男は向けていた背中を元の位置に戻し、彼女と再び向き合った。神田の、腕を掴んでいる手を剥がし、その手を両手で包み込んだ。彼女はされるがままだった。神田の少し冷たい手の感覚と震えに、しかし男はそんなことはどうでもよかった。
「本当に、僕なんかでいいんでしょうか?」
手を握りながら、神田に問う。
「ええ……いいんです。きっと、初めからこうなることは、決まっていたんです。運命、というやつですかね?」
そのとき、男の眉毛が微かに揺れた。初めからこうなることが決まっていた、の、初め、とは一体いつからのことだろうか、生まれたその瞬間からなのだろうか、中学に入学したとき、それとも、ドラッグストアで働き始めたとき。男は思った。きっと生まれたその瞬間、いや、生まれる前から恐らく、自分の両親が出会ったそのときから定められた運命なのだろうと。しかしそれに抗うことなど、無意味なことだった。
「そう、ですね」
「ええ、きっと、そうなんです」
彼女は、覚悟したように言った。
男は手を離した。広場を見た。遠くのほうで榊の一家がこちらを見て、笑っているような気がした。
「今度、互いに、両親に挨拶に行かなければならないですね」
「はい、そうですね」
男は、待っててください、と言うと、近くにあった自動販売機からミネラルウォーターを二本購入し、一本を神田に渡した。
「今日はとても暑いですから、熱中症に気を付けなければなりません」
男は水を一口飲んだ。喉が渇いていたのか、二口目で半分以上を胃に入れた。神田は男の姿を見てからキャップを開け、男とは対照的に細く水を喉に通していった。二人の顔は昇っている太陽に、痛いほどに照らされていた。神田の無駄に白い肌が、男の目を刺激した。男はその刺激から逃れるために、再び噴水に身体を向けた。
まだ明るいうちに男は家に帰ってきた。相変わらず公園に行き、なにかを探しながら砂を蹴る。
「あ、あれは」
ようやく男は目的のものを見つけた。近くに落ちていた植物の葉を手にし、その上にそっと乗せる。逃げないうちに、持ってきた小さなケースの中にそれをいれ急いで自宅に帰った。この前作った石膏の巣ではなく、それよりも小さなメラミンスポンジを敷いた箱の中に入れ蓋をした。男の鼻息はこれ以上ないほどに荒くなっており、目には溢れんばかりの力が漲っている。
「女王蟻、さあ、ここで帝国を作るんだ」
箱の外から女王蟻を撫でる。執拗に、何度も、箱の表面が男の指の垢で白くなるほどに。
女王蟻が産卵するのを待った。
その間結婚の準備は着実に進んでいった。両親は神田のことを快く受け入れた。
一ヶ月が経った頃ケースの中に卵を発見した。その白い物体を見た瞬間、男の頬はこれまでになく緩み、口角は上がり放題に上がり、心臓の鼓動も早くなる。しかし男は興奮を抑えなるべく刺激を与えないように、女王蟻と卵を観察する頻度を抑えた。
結婚式は行わないことになった。男も神田も式をすることを望まなかったし、両家の親も二人の意思を尊重した。
榊と連絡を取らなくなって数ヶ月、男は久しぶりに榊にメッセージを送った。一時間後に返信が来た。
『そうなんだ、おめでとう! ぜひ、なにか贈り物をさせてくれないかな?』
男は『ああ』と返事をした。
男と神田は、平日の午後に婚姻届けを出しに行った。神田は男の家に越してくることになった。使われていない小さな部屋が神田の部屋として決まった。その頃卵が孵化し、女王蟻の周りには、小さな蟻が蠢いていた。男は石膏で作った蟻の巣と今女王蟻を育てているケースをチューブで繋いで、蟻たちが移動する様子を眺めた。神田が家に越してくる前に、蟻のことを言わなければいけないと思っていた。たまたま仕事が被った日、仕事が終わると神田を車に乗せて口を開いた。
「実は、ペットを、飼っているんです」
「ペット? 犬、とかですか?」
男は数秒黙り、「いえ」と言った。
「蟻、です」
数秒、沈黙が空間を支配する。
「……蟻?」
「ええ、その……蟻を飼っているんです。でも、安心してください。自分の部屋で飼っていますし、迷惑をかけることは絶対にないですから」
男の予想に反して、神田は笑った。
「ええ、お互いの趣味というか、そういうのは、尊重しましょう」
話はそれだけですか? と訊かれた男が「はい」と返事をすると「それじゃあ、今日はもう帰りますね」と、神田は自ら車のドアを開け、降りた。男はなにも言わずにその一部始終を見ていた。
神田が男の家に越してくる前日に、榊が男の家を訪ねてきた。男と同じ半そでのポロシャツを着ていたが、一目で分かる生地の違いに、男は忘れかかっていた憎悪が湧き上がってくるのを必死に抑え込む。
「春日くん、本当におめでとう」
「あ、ああ、ありがとう」
榊の手には、百貨店の紙袋があった。
「これ、ブルーノっていうブランドの調理器具なんだ。なにがいいのか分からなくて、こんなものになっちゃって」
榊の笑みには嫌味など一つも含まれていなかった。
「いや、いいよ、最近よくテレビで見る調理器具だよね。さすが榊くん、センスがいい」
「いや、そんなこと」
男は一度息を呑んでから、口を開いた。
「榊くんに見て欲しいものがあるんだ。この前も話したけど」
「僕に?」
「ああ。ぜひ」
榊を家に入れた。カレーの匂いの染みついているキッチンを通って自室に来た。
「これさ」
男は机を指さした。
そこには男の手作りの蟻の巣があり、その中で無数の蟻が生きており、男の与えた餌を今この瞬間に食べて生きている。狭い空間で、多くの蟻が蠢いている。男は巣の近くに立ち榊を呼んだ。榊は言われるままに蟻の巣の目の前に来て、言われるままに腰を落とし、中を覗き込んだ。
「女王蟻を捕まえてきて、ここで孵化させた蟻たちだよ。キットで育てているうちに自分のオリジナルのものが欲しくなって。すごいだろ? この蟻たちはこの部屋で生まれたんだよ!」
榊は背筋を伸ばすと男の肩に手を置いた。その手首にはやはり存在を放つ腕時計があった。
「うん、すごいね。流石春日くんだよ」
「そうだろ? すごいだろ」
男は榊の手を肩から払い、天井を見て声を出して笑ったのだった。
完
👓こなん👓