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林芙美子文学賞二次通過「蟻の王国」前編
第10回林芙美子文学賞二次通過した作品です。
みなさまのお役に立てればと思い公開することにしました。
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男は、蟻を見ていた。
公園の片隅、滑り台やブランコで町内の子どもたちが奇声を発しながら砂埃を立て、男のわずか五センチのところを走り去ろうが、そのときに地面についている服の一部を踏んでいこうが、しかし男はそんな子どもたちには目もくれずに、ひたすらにしゃがみ、蟻を眺めていた。蟻は、なにかを運んでいた。自分の身体よりも何倍も大きい、白い枯草のようなものを、必死に持ち上げている。男はそれを無情にも蟻から取り上げた。蟻は一瞬、躊躇いを見せたような気がしたが、次の瞬間にはすぐに新たなものを探しに自分の仕事に戻って行った。
男は、蟻の様子から目を離さずにポケットの中に手を突っ込んだ。
中には、なにやら硬いものがプラスチックに包まれて入っており、出すとそれは飴だった。それがいつの飴だか、男は思い出せなかった。男は溶けて変形した飴を袋から取り出すと、蟻の巣の穴の近くに置き、再び蟻の観察を始めた。
子どもの蹴っているサッカーボールが男の背中に強く当たる。緑色の薄汚れたコートに、ボールの運んできた砂が付く。しかしそれは男には見えず、立とうとも、それを払おうともせず、しゃがみこんだまま、とにかくひたすら地面を見ていた。男の子の母親が遠慮がちに近づいてきて「すみません」と後ずさりをしながら言い、しかし男はその言葉にさえ振り返りはしない。子どもの母親は「あの人には近づいちゃだめよ」と子どもの耳元で、しかしながら大分大きな声量でわざとらしく言った。男は、自分に背を向け離れていく親子の後ろ姿をちらりと見たが、すぐに視線を蟻へと戻した。
飴に蟻が一匹、二匹、近ついていた。それは男がそれまで観察していた黒い蟻ではなく、それよりも小さい、茶色の蟻だった。その数は徐々に増えていき、ついに飴は大量の蟻に呑み込まれる。飴の上で、十数匹の蟻が、世界を支配するかのように蠢いている。男が飴に触れようと手を伸ばすと、一匹の蟻が飴から男の手に移動し、男の手の甲を散歩し始め、無遠慮にコートの中に潜ろうとした。男は急いで手を払い、その瞬間、蟻は地面へと落とされた。
立ち上がると、公園の入口へと向かう。歩くと、ざざっざざっと靴の底と摩擦の多い地面の擦れる音が辺りに響く。男の靴は、かかとのほうが擦り減っており、底が地面に対して斜めになっていた。さきほどまで、いつのものか分からない飴の入っていたコートのポケットに手を入れたまま、男は家に向かって歩いて行った。
家に着くと、男は外階段を上り二階へと行った。外階段のペンキはところどころ剥がれていて、剥き出しになっている鉄は錆びて茶色くなっている。コンクリートには、小さなひびが無数に生えている。コンクリートの二階建てで、一階は仕事場になっていた。築年数は四十年程、新築とは到底言い難く、屋内の壁のところどころは白色から薄黄色になっており、床には落としきれない汚れがこびりついていて、中には粘着性のあるものまであった。
母親は夕食の準備をしていた。まな板の上に転がる人参、じゃがいも、ボウルに入った玉ねぎ、パックのままテーブルに置かれている安い豚肉、わざわざ想像しなくても、今日の夕食がなんであるのか、すぐに分かった。週に一度はカレーだった。具だってなに一つ変わらず、いつも安い豚肉の脂が沈んでいる。男は母親の姿を一瞥すると、すぐに自室に向かおうとするが、母親の言葉が男の歩く脚を止めた。
「健司、榊くんって覚えてる? その子が少し前に、春日くんいますかって尋ねて来たんだけど。健司がコンビニに行ってる間に」
男は、下向きの目線をやや上に向けた。
「榊って……中学の頃の同級生のあの榊?」
「そうだと思うよ。よく家に遊びに来てた子でしょう? 顔の作りは変わっていなかったけれど、なんだかあのときよりも随分と立派になってたよ。そうそう、連絡先を預かったのよ。確か、今年からこっちで働くことになって、戻って来たって言ってたよ。ぜひ会いたいって。せっかくだから会ってみればいいじゃない」
男は、丁寧な字で連絡先の書かれてある紙を母親から受け取ると、文字の羅列をじっと見つめた。確かに、この字は男の記憶の片隅にある、中学の頃の榊の文字にそっくりだ、この少し丸みのある、弱気な性格の現れた文字で、しかしながら字自体は美しい。榊によく勉強を教えてもらっていた男は、彼の字を見慣れていたのだ。彼の字からは、裕福な家庭の、しかしながら気の小ささがよく表れている。
今でも変わらぬ榊の字に口元を少しばかり緩めると、その紙をポケットには仕舞わず、二本指で掴んだまま自室へと行った。
男の部屋は六畳あるが、ベッドに本棚、机、で半分以上が占められ、また、床には棚に入りきらない少年雑誌、ゴミ箱に入れられなかったゴミが散乱しており、床に腰を下ろすスペースはほとんどなかった。流れる空気は、まるで数日間一切外の空気を循環させていないかのように、淀んでいる。男は落ちていた紙屑を拾うと、ゴミ箱に向かってなんの敬意も払うことなく投げた。
コートを着たまま椅子に座った。学生の頃から変わらない、傷が至る所にあり、油性のペンで落書きのされている勉強机の上には、一枚の紙があった。同窓会の知らせの手紙だった。三十歳という区切りのいい年に集まろう、という内容が書かれていた。男はその紙には目を向けず、もらった連絡先の書かれた紙を片手に、もう片方の手でコートのポケットからスマホを出し、画面になにかを打ち込んでいく。
電気を点けていない部屋の中で、しかもカーテンが掛けられていて外からの光もほとんど入ってこず、スマホのやけに強いブルーライトが男の顔を照らしていた。
メールを送信し終えると、さきほど見た蟻の姿を唐突に思い出した。しかしそれはすぐに頭の片隅へと追いやられた。何故なら、スマホがぴろんと甲高い音を響かせ、メッセージの受信を知らせたからである。男はあまりの速さの返信に、一度スマホを置いて息を吸い、再び手に持つと、内容を確認した。
『久しぶりだね。僕のこと覚えてる? 一、三年で同じクラスだった榊優斗。今年からこっちで働くことになって、東京から帰って来たんだ』
それは、男にとって久しぶりの同級生とのやりとりだった。
『もちろん覚えてるよ。ぜひ休みの日にでも会いたいね』
『うん、いいね。そういえば、同窓会の知らせが来てたけど、春日くんは行く? 春日くんが行くなら、僕も行こうかと考えてたんだよね。確か、三年のときの先生たちも来るんだよね?』
『行かない予定だったけど』
そこまで打つと、男は、同窓会の紙に目を遣り、それから漂うあの頃の惨めさに息を止める。それは、榊という人物のおかげで大分緩和していたものの、それでも常に心の片隅で、子どもながらに階級というもの感じていた。自分ではどうすることもできないこの差は、しかしながら中学生という若者にも、正面からぶつかって来るのだ。しかし同時に、それをより色濃くしたのは、やはり榊という存在であった。
男は再び公園の蟻のことを思い出した。
そして榊へのメッセージも返さないままに『蟻の育て方』と、インターネットで検索した。さっきの飴に群がっていた蟻ではなく、はじめに見ていた黒い蟻を、自分の部屋で飼いたいと、何故だかその衝動が心の奥底からマグマのように湧き上がって来て噴出し、身体全体を呑み込み、頭髪の先まで支配したのだ。男の息は、興奮が色濃くなるにつれて荒くなっていく。興奮はさらに男の身体を細かに揺らす。
今、自分は蟻を飼わなければならない。
理由なんてのは必要ない。
とにかく、今自分には蟻が必要なのだ。
なんでもない、蟻こそが今この部屋にいなければならない生物なのだ!
男は、貪りつくようにスマホの画面に目を向け、蟻の飼育方法を検索した。背中は丸まり、首は前に突き出していて、鼻からは大量の息が、まるで蒸気機関車の煙突から排出される気体のように漏れ出していた。ネット通販で蟻の飼育キットを検索し、一番上に表示されているものを購入した。届くのは一週間後だった。
キットを購入すると、男はコートを着たまま家を出た。そして夜もすっかり暗くなってから、帰宅した。
男はその晩、夢を見た。
男は夢の中で、ひたすら餌を集めていた。その視点は、いつも自分が見ているものではない。目の前には石が落ち、人間が巨大な、恐ろしい動物として存在し、自分たちを捕まえようとしている。その手から逃げながら餌を探し、土の上を這っている。人間の指が触れる。右に移動する。すると右から指が落ちてくる。次は左に移動する。すれすれのところで指をかわしながら餌を見つけていく。そう、女王蟻ではなく働き蟻の一匹として、ひたすら太陽の照り付ける外で働いていた。
朝起きると、起床後とは思えない疲労感が身体隅々を支配しており、男の身体は大量に発汗していた。服が身体に纏わりつき、朝から不快が襲う。濡れたティシャツを着替えキッチンに水を飲みに行くとすでに朝食はできあがっており、「昨日夜遅かったんでしょ? もう少し眠っててもいいわよ」と母親に言われたが、男は「いや、大丈夫だから」と突っぱね、コップに並々と水を注ぎ、一気に飲んだ。
「もう少し、近いところで働いたら?」
男はコップを荒々しくキッチン台に置くと
「近いと、同級生に見られるだろ」
と、喉から低い声を出した。
夜にドラッグストアで働いている自分の姿を、かつてのクラスメイトにでも見られネット上で拡散されたとしたら、と思うと、背中に毛虫が這う感覚が襲う。男は背中を揺らして、服の中にいる毛虫を落とそうとしたが、感覚はなかなか消えてはくれない。壁に寄り掛かり背中を擦り付けると、中で毛虫が潰されて、ようやく死んだような気がした。
「それは、そうだけど……ごめんね、貧しくて。夜も働きに出てもらわないといけないなんて……」
男は母親の言葉には返事をせず、窓から見える向こうの景色に目を向け、同時に息を吐いた。
家の隣には公園がある。そんなに大きくもない公園は、一般的な一軒家が三棟か四棟入るほどの広さで、木がまばらに植えられており、遊具は滑り台とブランコがあるばかりだった。空間を彩る花が植えられているわけでも、光を輝かせ虹を作る噴水もない、広場のような殺風景な場所だった。この公園を境にして、街の景色は百八十度変わる。
公園の向こう側のA地区には、新築の家が建っており、道路も平らで凹凸なく、コンクリートにはひびも生えていない。男の住むB地区よりも、一軒一軒の家も大きく、必ずと言っていいほど、庭があった。その庭には、季節ごとに色とりどりの花が咲き誇り、まるでそれを植えることがA地区の決まりごとでもあるかのようだった。
そして、その街には余裕があった。B地区に流れる空気は重く湿気が多いが、A地区の空気は軽く、色で言うならば光を反射する白色で、それは恐らくその土地に住む人々の作り出す雰囲気だ。男はA地区の景色から目を逸らすと、母親の作った味噌汁を啜った。それは恐ろしく庶民的な味がした。浮いているなめこを箸で掴もうとするが、ぬめりが酷くてなかなか掴むことができない。ようやく棒と棒の間に乗せることができたと思ったら、滑り台を滑る子どものように落ちていってしまう。
男は思い通りにならないなめこを諦め、豆腐を掴んだ。しかしそれは割れてしまい、再び汁の中に消えていった。
「今度、同窓会があるみたいなんだ」
「あら、いいじゃない」
「成人式のあとの同窓会以来の、大規模なものらしくて。行ってみようかと思う」
話の途中で、起きたばかりの父親がよれたティシャツによれた股引を履き、――おそらくそれは買った当初は真っ白であったはずだったが今では黄ばんでいる――味噌汁を音を立てて豪快に啜った。男は、その音源を睨みつけた。
「偶には、羽を伸ばしてきてね」
「ああ」
朝食を食べ終え時間になると、男は仕事に取り掛かった。
なにごともなく仕事が終わると、自室にあった空の瓶を持って公園に向かった。空は薄暗かった。先ほどまでオレンジ色の絵の具で染められたような空は、すでにその色を失い、グレーに変わっていた。公園には、学校を終えて遊びに来ている小学校五、六年ほどの子どもたちの姿があり、彼らは男の姿を捉えると、集まって男を見ながらひそひそとなにかを話し始めた。しかし男は子どもたちの無礼な態度には目もくれず、蟻を捕獲するために公園内を彷徨う。蟻を探すのは難しくはなく、すぐに一匹の蟻がどこかへ向かって歩いていく姿が目に入り、男はそれを掴むと、蟻の意思を完全に無視して瓶の中へと入れ、蓋をした。蟻は、瓶の中でぐるぐると歩き回る。男は口元をにやりと上げ、まだなにかの会議のように話を続けている子どもたちを一瞥してから、公園を後にした。
男は蟻の入った瓶を部屋の机の上に置いて、蓋を外し、飴を一つ投入した。そして金の蓋の代わりにラップをして、つまようじでポツポツと穴を開けた。そのとき、昨日榊にメッセージを返していないことを思い出し『同窓会、行くよ』と返信をすると、近所のスーパーの総菜の牛肉入りジャガイモコロッケを食べてアルバイトへ向かった。
更衣室にはすでに他人の姿があり、その人は男の姿を捉えると、ごく自然に挨拶をする。
「あ、おつかれーす」
「お疲れ」
ほとんど口を動かさずに、挨拶を返した。
「今日春日さんと一緒でしたっけ? ていうか、いつも春日さんと一緒っすよね」
近所の大学に通う学生だった。
「そうだね。まあ、夜勤は人が少ないし」
「そうっすね。つーか、前から思ってたんすけど、春日さんって、あれっすか? フリーター?」
男はちらりと彼を見てから
「違うよ」
と、素っ気なく言った。
「ええ、じゃあ、なんすか? もしかして俺の知らない間に正社員に昇格してたり」
「違うよ。実家が自営業で、だけど、それだけじゃ金が足りないから、夜も働いてるってわけ」
「へー、大変すね」
「金がないのは昔からだから」
「そうなんすか、俺も今金欠で、今度彼女と旅行する予定なんで、シフト多めに入れてもらってるんすよね」
大学生は、半額のシールの付いた菓子パンを食べ始める。
「そうか」
「つうか、春日さんって、結婚してるんすか?」
「いや」
「彼女は?」
「いないよ」
「じゃあ、一人っすか。まあ、あれっすよね、今は一人でもべつにあれっすもんね。べつに、珍しくないっすよ。結婚が全てじゃないって俺の友達も言ってますもん。いや、お前まだ学生だろって突っ込んだんすけどね」
大学生は、口からパンの欠片を飛ばしている。男は彼の言葉になにも口を挟むことなく、ただ耳を傾けていた。
「でも、寂しくないっすか? 一人だと」
「いや、べつに」
「あー、そういえば、日中働いてる神田さん、たしか独身で彼氏いないっすよ、この前訊いたんすけど。春日さんと同い年くらいっすよね? ちょっとデートでもどうっすか?」
「昼も夜も働いてるからそんな暇ないよ」
春日はその言葉を残して更衣室から出た。更衣室の中からは「って言ったって、休みの日くらいあるっしょ」と言う声が、パンに大量にかかっていた粉砂糖とともに舞っていた。
男は淡々と仕事をこなした。棚に商品を補充し、レジをし、偶に来る質問に丁重に答え、気が付くと仕事の時間は終わっている。すぐに帰宅の準備をして店を出て、普段よりもアクセルペダルを強く踏み込み、蟻の待つ部屋へと早々と帰ってきた。
蟻は生きていた。飴に貼りついていた。それを確認すると、飴から蟻を引き剥がして取り出し、今度はもともとの金色の蓋をして放置した。数日は生きていたが、ある朝、瓶の中を確認すると、身体が縮こまって動かなくなっていた。男は瓶を持ち蓋を外し、窓を開けて腕を伸ばして瓶を外に出し、ひっくり返す。蟻は、瓶の中からまるでゴミのように落ちていき、地面と同化した。
蟻のキットが届く前日に、A地区にあるホテルの一室で同窓会が開催される。当日の朝、男はクローゼットの奥からスーツを引っ張り出し、久しぶりにそれを着た。仕事ではほとんどスーツを着ることはない。人と関わる仕事は全部母親と父親が担っており、男は事務所で電話の受付や経理をしているばかりだった。
久しぶりにスーツを着ると男の身体に密着し、ボタンはぎりぎり閉まりはしたが、鏡で見る自分の姿が余りにも滑稽だったため、男は諦めていつも着ているよれた服の中でも、まだましである紺色のポロシャツを着、下だけはスーツを履き、革靴を履いて家を出た。
ホテルには歩いて行ける距離なので、車は使わずに向かった。
榊とは、ホテルのロビーで待ち合わせをしていた。ロビーに敷かれた赤絨毯、飾られてあるグランドピアノ、天井に吊るされているシャンデリア、すべてのものが眩しく、つい目を細めた。
男は、あれから榊に一度も会っていなかったが、成人式の頃の榊を思い出し、その姿を探した。しかし、榊はまだいないようだった。ロビーにある椅子に腰を掛け、次々と来る同級生たちを見つめていた。久しぶりー、や、元気だったー? という生存確認の言葉は、あちらこちらから耳を刺激してくる。ホテルにある時計を何度も確認しているうちに、約束の時間から五分が過ぎようとしていた。
「ごめん、遅くなって」
駆け寄ってくる慌ただしい足音にそちらを向くと、ようやく男の前に榊が現れた。しかしそれは、男の片隅にいた榊とはまるで別人であった。いや、目鼻立ちはもちろん変わってはいないだろう、しかし、成人式で見た榊は、中学時代の彼を少しばかり伸ばし、また、少しばかり横にも広げ言うなれば、子どもが顔を変えずに背だけを伸ばした、そのような感じであったのだ。
しかし、今目の前にいる榊はどうだろう。
風の噂で、彼が弁護士になったということは知っていた。恐らく彼が望んだものではなく、彼の父親が弁護士であったことが彼の道を決めたのだ。中学時代にも何度か、榊が親のことについて顔を曇らせながら話していたのを、覚えていた。
しかし今では当時の顔の陰りは一切消え、弁護士、という名の職業に相応しいかのように表情は勇ましく、髪を短く整え、自身の体系にぴたりと合ったスーツを身に纏い、光る革靴に足を収めていた。
男は自分の革靴を見た。それはまるで、白いコーティング剤でも塗っているかのように濁っていた。靴磨き、などというものを一度もされたことのない革靴は、長年の汚れを蓄積しており、ホテルの眩いオレンジ色の光を受けてもなお、輝くことはなかったのだ。
榊は、いかにも値の張りそうな腕時計を見て
「ごめん、直前になって、娘が泣きだしてしまって」
と言う。
「榊くん、結婚してたんだ」
「うん。五年ほど前にね」
男は榊から目を逸らし、なにも着けていない手首を見てから「じゃあ、行こうか」と椅子から立ち上がった。榊は、「そうだね」と彼の後ろを歩いた。榊は中学の頃からこうだった。いつも男の後ろに着き、自分の姿をすべての人の目から隠そうとしているのだ。
男は気にせず会場であるホールへ入った。そこに広がる光景に、男は榊にも聞こえないほどの溜息を吐いた。
「意外と、三十になっても皆変わらないものだね」
と、榊は言った。そう言い放った榊を、男は細めた目で見ながら、近くにある飲み物を適当に手に取り、喉に通していく。
「そういえば、春日くんは何部だったっけ?」
「パソコン部だよ」
男は素っ気なかった。本当は、運動部、例えばサッカー部とか、女子の気を引くような部活動に入部したいと思っていたが、しかしそれは家庭の事情からやむを得ず手放すことになった。制服やジャージ、指定の鞄や靴を揃えるだけでも精一杯だったのに、それに加え、部活の道具を一式そろえるなど、到底無理なことだった。中学に上がった頃、両親が夜中に「もし健司が運動部に入部したら、道具を一式揃えてあげないとね」「十万も掛かるって言うぞ……」「十万……」と、深刻な声で話していたのを聞いてしまったのだ。
「パソコン部かあ、今思えば、僕もパソコン部に行けばよかったよ。卓球部は、僕には合わなかった。小学校の友達もいなかったし。そもそも、運動は得意じゃなかったのに、どうして運動部に入部してしまったのか、今でも分からないよ」
榊の話を聞きながら、会場に集まってくる人間を見た。
ホールに入ってくる者は皆、まるでどこかのパーティにでも招待されたかのように華やかな服を身に着け、男たちは髪を艶やかに整え、女たちは濃い化粧をし、日常感の薄れた同窓会という場に馴染んでいる。男はもう一度、榊の服装を見た。アイロンの掛けられたワイシャツに、恐らくクリーニングに出されたれあろうスーツ、磨き上げられた靴に、眩い光を反射している銀色の腕時計。
次に自分に目を遣ると、この場で、自分一人だけが、真っ白な空間に突如現れた黒い点のように、浮いているではないか。
急に、自分が惨めに覚え、他に中学のときに自分と同じように常に影を纏っていた人間はどのような格好をしているのかと辺りを見渡したが、そもそもそういう人間は、この場に来ていないか、もしくは榊のように清潔さを増し、あの頃とは違う、いかにも社会に順応しているという雰囲気を纏っていた。
何故自分はここに来てしまったのだろうか、という考えが、頭の中に突如浮かび上がってきた。
「春日くんは、どうしてパソコン部に?」
榊の問いに、男ははっと我に返った。
「なんとなく、運動は得意じゃなかったし」
男はトイレに行ってくると言ってその場から離れた。ホテルの廊下はやけに幅が広く、金縁の額に入れられ壁に飾られている絵画は、より一層男の心を窮屈にした。次に戻って来たときには、榊が中学の頃から特有の選民意識を纏っているかのようなA地区の連中に囲まれ、しかもその中心で笑いながら話をしているではないか。男はA地区の人間を、中学の頃から好んでいなかった。自分とは正反対の空気を纏う彼らは、彼にとって脅威そのものだった。なにもかもが自分とは正反対の人間たちだと思っていた。でも、榊だけは違うと思っていた。
男は榊のところには戻らずに、ホールの端で、いつもは気軽に飲むことのできない生ビールを注文した。それは、普段飲んでいる発泡酒とは、コクが全く違った。
帰宅すると、蓄積された疲労が瞼を強制的に閉ざそうとした。男はそれに抗わずに、目を閉じた。
次の日の午前中、蟻の飼育キットが男の家に届き、男はまるで子どもが誕生日プレゼントを受け取るときのような表情をして手にした。昨日の疲れなど、受け取った瞬間にどこかへと消え去っていった。
男は早速段ボールからキットを出し、説明書を見た。そこに書かれている通りに、虫かごのような箱にキットの中に入っている砂を入れ、水でそれを湿らせ、餌場と虫かごを細いチューブで繋ぐ。
残るは主役となる蟻だけだった。男はさっそく空の瓶を持って公園に行き、蟻を探し始めた。巣の近くで歩いていた黒い蟻を一匹、指で潰さないように掴み取り、瓶に入れる。一匹一匹捕まえて、計二十匹ほどになったところで、男は足取り軽く家に帰った。箱に蟻を放り込み、男は椅子に座り、蟻たちの様子をじっと見つめた。蟻は困惑したかのように、左右を行き来している。外とキットの世界との違いを、慎重に確かめているようにも見える。最初の一時間ほどは、巣を掘らなかった。しかし、時間が経つにつれて蟻たちは穴を掘り始めていく。よく見ていると、蟻は分担作業をしていた。穴を掘る蟻、砂を運ぶ蟻、仕事を分担することで、効率的な働きをしているのだ。蟻をずっと見ているうちに、男はだんだんと自分が蟻の一員であるという錯覚を覚え始めた。いや、一員というよりは、蟻をまとめるリーダー、という存在であろうか。男は空腹を覚えるとバナナと冷蔵されているおにぎりを持って、再び蟻の目の前に座った。再びじっくりと観察していると、働かない蟻、一生懸命に働く蟻、普通に働いている蟻、の三種類がいることが分かった。男は、蟻に餌を与えた。蟻は管を通って餌場まで来て、食べた。蟻は乾燥に非常に弱いと注意書きがあったので、男はこまめに水を遣った。男は蟻を見ていると、心が今までにないほどに動かされているのを感じた。蟻を見ていても、飽きという感情は、まるで忘れ去られてしまったかのように訪れてこない。人間といるときには湧き上がってこなかった興奮や歓喜が、この小さな虫によって自分にもたらされている。たかが蟻という存在が、自分をこれほどまでにとりこにしているとは!
夕食を食べるとき、風呂に入るときを除いて、ほとんどの時間を蟻の観察に費やし、男の一日はあっと言う間に終わりを迎えた。
それはある日の夜だった。男はいつも通り職場の更衣室で着替えをしていた。
「で、春日さんのこと話したんすよ。そしたら、会ってもいいって」
「は?」
男は、制服を着ていた手を止めて大学生を見た。会ってもいい、その言葉の意味を理解するのに、数秒要した。男はとりあえずワイシャツのボタンを上まで掛けると、一度大学生の顔を見てもう一度「は?」と息を吐いた。
「いや、だから、この前言ったじゃないすか、神田さん、ですよ、春日さんだって何度か会ったことあるでしょ?」
「ま、まあ」
「で、そのとき連絡先、訊いてきたんで、今から言いますね。ほら、メモしてくださいよ、早くスマホ出して」
男は言われるままにスマホを鞄から出し、言われたアルファベットの羅列をメモ帳に打ち込んでいった。今自分がどのような状況に置かれているのか、男は今一つぴんときていなかった。
「ま、頑張れしか俺は言えないっすけどね。つうか、頑張ってもらわないと、俺の行動が無駄になるんで。頼みますよ」
大学生は、いつの間にか着替え終わっていた。男がスマホの画面を見つめている間に大学生は更衣室を出ていた。「お疲れ様です」と、仕事を終えた人物が更衣室に入って来て、ようやく男はスマホから目を逸らした。まるで、今この数分の出来事が、自分の外側で展開されているようにも思えるのだ。
仕事を終えて帰宅すると男はシャワーを浴び、蟻の前に座った。しかしその目は蟻ではなく、スマホに向いていた。男は榊に連絡をした。するとすぐに返事は来た。
『まずは、挨拶でも送ってみたらいいんじゃないかな?』
『そうだね、ありがとう』と返信をし、その通りにした。
『こんばんは、初めまして。同じドラックストアで働いている春日健司です』
その他に書くことが思い浮かばなかったので、男はそのままメッセージを送った。その瞬間、身体から力が抜け腕が下がる。ようやく蟻の巣に目を向けた。ここ十数日で、蟻は立派な巣を張り巡らしていた。この蟻の巣を『蟻の国』と名付けた。それはまさに男自身の作り出した、男のための男による国だった。ある日は果物、ある日は公園で捕まえてきた昆虫、ある日は安物の菓子、とその日によって餌を変えていたが、一番減りが早かったのは昆虫ゼリーだったので、大量のゼリーを購入して机の上に置いた。蟻は文句を言うことなく、男の意のままに動いている、ように彼の目には見えた。
ゼリーを食べる蟻を見ていると、スマホの画面が光り、プラスチックの箱の表面に反射する。榊からだと思ったそれは、神田からのメッセージだった。
男はまるで突如棘でも生えてきたかのようにスマホを手放し、椅子から立ち上がって無意味に部屋を歩き回り、再び腰かける。スマホを再び持ち、メッセージを確認した。
『こんにちは、神田です。なんだか、急にこんなことになってしまって、ごめんなさい。でも、一度はお話してみたいと思っていたので、ちょうどいい機会だなと、思っています。よろしければ、返信ください』
男は書かれている文字を読んで、身体を硬直させた。一度お話してみたい、などと言われるのはもちろん人生でこれが初めてであり、自分の人生にこのようなイベントが待っていたのかと、溜息を吐いた。蟻を見た。次にもう一度スマホの画面を見た。
『それでは、一度お会いしましょう』
心の中とは反比例し、文字はいかにも冷静であったが、男の手は細かに震えており、緊張が駄々洩れしているのが手に取るように分かる。男はスマホを机の上に置いて、キットを両手で掴んだ。
「なあ、こんなことがあるなんて思いもしなかったよ」
張りの良い声は、部屋の空気を揺らす。
男の声に反応した蟻たちが一斉に男を見た。今まさに攻撃を仕掛けようというほどの鋭い視線に男は震え上がった。男は息を止める。しかし次の瞬間には、いつもの通り蟻がキットの中をなにごともなく歩いている姿が目に入ってきたので、男は安堵しキットをテーブルに置いた。
ある週末、男は榊に呼ばれてA地区の丘に聳え立っている彼のマンションへ訪ねていた。そこには、彼の妻に、まだ小さい二本の脚で歩くのがやっとだという子どもが一人いた。彼の妻のお腹は大きく、今にもはちきれんばかりに膨らんでおり、そこにもう一つの命があることを主張していた。
「安定期でね。最近は体調もいいんだ。彼女に春日くんの話をしたら、ぜひ会いたいって」
「そう」
榊の妻に一礼をした。妻は笑みを浮かべ、いかにも幸せな家庭の人間というように会釈をした。持ってきた、デパートの地下で買った手土産を榊に渡した。部屋の中には光がさんさんと注がれており、白い壁はその光を反射していた。部屋の角には背の高い観葉植物が二つほどあった。男は四人がけの革のソファに座らせられ、榊は男のためにコーヒーを淹れる。豆の削られる音が部屋全体に響き、男はその男に耳を傾けた。ソファは驚くほどに男の尻を包み込んだ。沈んでいく身体を一度立ち上がらせ、男は再びソファに腰を下ろす。見える家電は全て最新のものだったし、様々な器具が揃えられていた。オーブン、レンジ、トースター、他には鍋のようなもの、ポットが少しばかり小さくなった四角いもの。男はまるで、家電売り場にでもいるようだと思った。
「いい家だね」
男はぐるりと一周、家の中を見渡した。
「両親が見つけてくれてね。頭金を出してくれて」
榊は花柄のコーヒーカップを、同じく花柄の皿に乗せて、それを二セットテーブルまで運んでくると、淹れられたばかりのコーヒーを注いだ。“本物”の匂いがした。また、男の持ってきた菓子の包装を丁寧に開けると、それも共にテーブルへと運んできた。
「そういえば、明日彼女と会うんだってね」
「そうなんだよ。今でも信じられなくて」
「彼女はどんな人なの?」
「まだ、よく知らないんだ。橋の向こうのドラッグストアで働いている人だよ」
橋の向こう側は土地が低かった。地理的に見ると、A地区が市の頂点にあり、A地区を下ったところに男たちの通った中学があり、そのさらに下に、男が現在働いているドラッグストアがあった。聞いたところによると、彼女はその地区に住んでいるようだった。男はちょうどA地区との境目である坂の途中に住んでいた。
「そうなんだ」
榊の何気なく発した言葉だったが、しかし男の耳はそのようには聞こえなかった。しかし男は湧き上がってくる感情を瞬時に抑えて、「そうだよ」と返事をした。榊は男の表情の裏に隠されてある本音などには全く気付かず、テーブルの上で湯気を立たせているコーヒーを飲んだ。
「それより、榊くんはどうやって奥さんと出会ったんだ?」
「ああ……」
と言いながら、榊は妻と目を合わせ、顔をほんのりとピンク色に染めた。
「大学で、同じ学科だったんだ。学科の飲み会があって、偶然席が隣になって、話をしていくうちに彼女も僕と同じように父親が弁護士で、自分もその道に進むように勧められていて、法学部に入部したって。似た者同士だっていうところから付き合うようになって、今に至るってわけだよ」
男
は持っていたコーヒーカップを、それが落ちてしまう前にテーブルに置いた。
「いい、出会いだね」
二人が話していると、まだ小さい子どもは、知らない人間がいることに対してなのか、まるで男を追い出さんと言わんばかりに泣きわめく。妻は子どもを抱くと、「すみません」と言って、部屋を出た。
「もうそろそろ帰ったほうがいいかな? 子どもも、知らない人がいるとストレスが溜まるだろうし」
男はソファから立ち上がろうとした。
「いや、実は、春日くんのためにお昼も用意してるんだよ。妻と一緒に作ったんだ。もちろん、買ってきたものもあるけどね」
榊に腕を掴まれ、浮きかけた尻をまたソファに沈めた。
なにかを忘れているような気がした。しかしたいしたことでもないような気がした。
「ローストビーフに、アンチョビのサラダ、キッシュ、ほかにさっぱりとしたものも用意したから、食べられないものがあったら無理に食べなくていいからね」
男は首を縦に振った。ローストビーフも、アンチョビも、キッシュも、男の生活には馴染みのないものであり、食卓にだって一度も並んだことがなかったし、自分で買おうともしなかった。数少ない外食のときだって、そんな洒落たものは食べたことがない。だいたい、キッシュなど、あんな一切れに三百円以上出すなら、おにぎりを二つ買ったほうがましだと、男はスーパーで売っているそれを見るたびに、心の中で毒づいていた。それがまさか、こうして榊に振る舞われることになるとは、と男は笑った。
榊の着ている皺ひとつない、いかにもいい生地を使っているアイビー色のポロシャツ。今履いているスリッパも、柔らかい繊維が足を包み込む。男は自分の服を見た。持っている中でいいものを着てきたはずなのに、そこにはなにかでできたもう落とせそうにもない染みがあり、唾を指につけてその部分を擦って取ろうとした。しかし汚れは落ちず、むしろその部分が唾液により濡れたことでより目立つようになってしまった。
「そろそろお昼だし、用意するから、あっちの椅子に座ってて」
男は言われるままに移動した。今度の椅子は、ソファのように男の身体を包み込むことはなかったが、木でできた椅子はちょうどいい具合に尻に合う。
座って待っていると榊の妻が戻って来てキッチンに立つ。二人が並んでもまだ余裕のあるキッチン内に、榊の言っていたローストビーフやらキッシュやらが登場し、それをナイフで切り妻がテーブルまで運んできた。
「キッシュは、買ってきたもので、ローストビーフは榊がぜひ春日さんに食べて欲しいって、手作りしたんですよ。榊は最近、ローストビーフを作るのにはまっていて」
「はあ、そうだったんですか。それは、友人として嬉しいですね」
男はタルトケーキのようなキッシュに目を向けた。スーパーにある一切れ三百円のキッシュだとして、これは二千円はするのではないか。しかもこれは恐らく、そこらのスーパーではなく、デパートの地下の質のいい小麦粉やらの原料にこだわっているもののように思えるのだ。男は、外の景色に目を遣った。空が近く、反対に建物が遠い。榊はA地区に住むどころか、A地区を毎日見下ろしているのだ。A地区を見下ろすということはつまり、この市全体を見下ろしていることになる、男の頭の中にはそのような方程式が成立し、一人唇を噛んだ。ここからは、男の働いているドラッグストアは当たり前に見えず、しかし、そんな場所はA地区から見えなくてもなにも問題ない。いや、必要のないものなのだ。
榊は外を眺めている男に声をかけた。
「お昼からって言うのもあれだけど、ワインはどうかな?」
「いや……」
「歩いて来たんでしょ? これも、今日のために買ってきたから」
「そう、なのか……。分かった。じゃあ、貰うよ」
男は、頷いた。もはや今この瞬間においてなにかを思うのが馬鹿馬鹿しいとさえ感じ始めていた。
ローストビーフを三枚食べた。キッシュを二切れ食べた。アンチョビのサラダを、大量に食べた。他にも、普段は食べることのないバゲットを、顎が疲労し、もうこれ以上咀嚼することはできないと口が悲鳴を上げるまで噛んだ。男は途中、味噌汁に白米が食べたくなり箸を置いた。ワインを飲むと、しかしながらその考えは消え去り、四枚目のローストビーフを口に含んだ。豚肉や鶏肉では味わえない牛肉の甘みのある味覚で口の中は満たされ、男は何度も咀嚼して飲み込んだ。口の隅々まで、上等な牛肉の脂が浸透していた。
食事もそろそろ終わりの雰囲気が漂っているのに、キッシュは半分以上残っている。男は、三人で会話している間、意識をして頬を上げていた。榊と榊の妻の雰囲気に合わせて、声を高めに出していた。二人の反応はいつだって男を受け入れるものだった。
ようやく、榊の「そろそろ時間だね」という言葉で、男は解放されることになった。榊は「ぜひ、お母さまやお父さまにどうかな?」と言って、残ったキッシュやらローストビーフを春日に持たせた。残ったワインも、同様に男に持たせた。最近大量に頂いたという光沢のある箱に入れられたチョコレートや、スポンジケーキも、持たせた。男は一言だけ礼を言って受け取り、榊の家を後にした。
帰り道、まだまだ光の注ぐ街の中、男は一人で青い空の下を歩き、ときどき溜息を吐いた。途中にあるA地区の公園に寄り、ベンチに座ると空を見た。いろいろなものの入れられた巨大な袋をベンチに置きもう一度息を吐くと、袋を手にせずに立ち上がり、家へ向かって歩き出した。公園にいた子どもは男の一部始終を見ていたのか、ベンチに置かれた袋を持ち男のもとへ走ると「お兄さん、これ、忘れ物だよ」と言い渡した。子どもは、男でも知っている有名なブランドのロゴの付いたティシャツを着ていた。そのシャツは新品同様に奇麗だった。もしかしたら、今日が初めて着るものなのかもしれない。「ありがとう」と言って、男はそれを受け取った。チョコレートを子どもにあげようかと一瞬思ったが、止めた。「どういたしまして」と、無垢な笑顔を子どもは男に向けると、ばいばい、と小さな手を振り、男の前から走っていなくなった。その先には、同じくらいの年齢の子どもたちが数人いて、その誰もが新品同様のティシャツを着、整えられた髪形をし、またその太陽に照らされている髪は風に吹かれるとさらさらと靡いた。一本一本まで丁寧に手入れされているような髪の毛は、太陽の光を受けて輪の模様を作っていた。
男は公園から出て住宅街を抜け、A地区との境目にある公園に着くと、家には帰らずにそこにあるベンチに座った。そこにもまた子どもたちがいた。彼らの着ている服は薄汚れていて、もちろん中にはさきほどの子どもたちと同様の服を着ている子どももいたが、ほとんどが使い古されたような服を身に纏っていた。子どもたちは男を見ると、円を作ってときどき男の姿を見ながら数人でひそひそと話し始めた。その声は、もちろん男の耳にははっきりとは届かない。男も、いちいちその様子を気にしようとはしない。ただ誰一人として、さきほどの子どものように笑顔で話し掛けて来ようとする子どもはいなかった。
男は家に帰るとやはり脇目もふらずに蟻の巣の前に座った。蟻は今日も普段通りに動き回っていた。見ると餌場には餌がなくなっていて、帰り際に榊に貰ったどこかの有名なケーキ屋のパウンドケーキをちぎってそこに置くと、高級な匂いにつられたのか早速蟻がやってきた。男は食い入るように見た。蟻がそれを運ぶ様子、食べる様子、それだけでなく、ただ巣の中を歩いている様子、動かずにじっとしている様子。蟻は当たり前に服を着ていない。腕時計もしていない。最新の家具だって揃えていない。丘の上どころか、正反対の土の中で暮らしている。男の与える餌によって生かされている。男がこの巣に住まう蟻たちの命を操っている。
寝る間も惜しんで蟻を見た。空は暗くなり、街から音が消え、暫く経って明るくなりかけた頃に、早朝の新聞配達の音が聞こえてくる。
つづく
👓こなん👓