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あかんたれにいちゃん11

空き家ビジネス

前にも話したが、兄はビジネスに対する目の付け所は以外といいセンスをもっていると私は思う。かつて、全国の空き家が社会的問題になった時、いち早くそのことに目をつけて空き家情報を一元管理するシステム構築に関するビジネスを考えついたことがあった。iPadのような端末で実地調査ができ、そのデータを一元管理できるといったようなものだ。それを作って全国の自治体に売り込む算段だったようだ。

その話を聞いた私は、チャレンジしたらいいと思うが、お金は一切支援しないとキッパリ伝えた。それでも補助金を申請して、システムを作り上げたのは立派だと思うが、読みが甘かった。ある土地調査会社と組んで自治体に売り込んだようだが海のものとも山のものともわからない会社が作ったシステムなど、自治体がすぐに採用するわけがない。ほとんどが入札方式の世界だからである。
そして、補助金は下りたのだがその大半をシステム会社に支払ってしまったため販管費がない。さらには、大手地図会社がこの事業に乗り出してきて、あえなく退散となった。

この頃、銀行もこの空き家ビジネスで期限までに2以上の自治体が導入を決めたら、融資を下ろす内諾をしてくれていた。そのためにも絶対に市民税は滞納しないようにと言われており、この市民税も私が兄に貸さざるを得なかった。
この時で融資を申請して10ヶ月以上経過していたと思う。

ついに限界

ついに私は自分ではどうにもならない状況に追い込まれた。これ以上のお金は出せない。これ以上の借金はできない。八方塞がりになった私は最後の手段を講じた。それは、結婚する時に妻からもらった腕時計を売るということだった。
妻からもらった腕時計はブランド物だったので高額買取対象だった。
ブランド買取ショップの販売書類にサインをした瞬間、とてつもない罪悪感に襲われた。そして現金を受け取った瞬間、思わず涙が溢れてきたので、そそくさとお店をあとにした。涙で帰り道がよく見えなかったことを覚えている。悔しくて、悔しくて・・・・。
帰りの道すがら、「もう終わりにしよう。もう諦めよう。もう限界だ。これで最後にしよう。」そう決心したのである。

今年の2月で妻との結婚は25周年になる。妻には感謝しかない。
あの時、手放した腕時計が私の時間を刻むことはない。時計の針を戻すことができたなら、あの頃に戻って選択をやり直したい。そうすれば、妻からもらったあのブルーの気品ある腕時計が今でも私の腕にはまっていただろう・・・・。
そんな無意味な妄想にふけると、なんだかとても虚しくなる。

市民税を無事支払い終えた後、融資の審査期間が長すぎるのではないかと思い、知り合いの税理士先生にそれとなく聞いてみた。すると、そんな時間がかかるケースは一度も経験したことがないという。せいぜい長くても2ヶ月だろうと。
私は、兄に、いくらなんでも待たせすぎだから、銀行に申し入れをしてくるように伝えた。

ほどなく、融資は難しいという回答が出た。売上や利益が厳しいこともあったが、融資期間中に建築・土木業がセーフティーネットの対象業種から外れたということも理由だった。私は「それは、あんたらが、先延ばし先延ばししてきたからだろうが!」と文句を言いたくなったが、あとの祭りである。
この10ヶ月間、船底から湧き出てくる海水をバケツで汲み出しながら、あの目的の島までもうすぐだからがんばろう!と必死に船を漕いできた我々、いや、私はなんだったのだろうか。虚しくて、悲しくて、辛くて、情けなくて・・・・。
思わず、篠原涼子の歌か!(愛しさと切なさと心強さと)と自分で突っ込みたくなる。

人間は自分の都合のいいように考えようとする生き物である。

何度か出てきた言葉である。上司に突然呼び出されたことによる増額融資枠の確保、2ヶ月無利息キャンペーンといい、その時はとてもラッキーだと捉えていた。もしこの2つがなければ、私はなんてツイていないんだと愚痴をこぼしながらも、もっと早く限界を迎え、白旗をあげていたかもしれない。
だが、もしもっと早く白旗をあげていたならば、傷はもっと浅かったはずだ。
結果として、この偶然なラッキーがなかった方がラッキーだったかもしれない。どちらにしても傷つくなら、浅いほうがいい。

一方、もし銀行の融資が思い通りに下りていて(兄のことは別として)私の借金が完済できていたら、やはり偶然なラッキーはラッキーそのものであったであろう。

未来のことは誰にもわからない。その時、一見、不幸に思えることが実は幸福なことであったりする。その逆もしかりである。
「人間万事塞翁が馬」という中国のことわざがある。
一見悪いことがよいことにつながり、逆によさそうなことが悪しきことにつながっていくという意味である。目の前のことに一喜一憂せずに、良いときには感謝しながら気を引き締め、辛い時には、幸せの貯金をしているのだと思い、愚痴をこぼざず耐えて毎日を明るく過ごしていくとよいという教訓であると思うが、まあ、後から考えれば合点がいくが、その瞬間にそう考えて、気持ちを切り替えるのは、なかなか至難の業であると私は感じる。

私は、兄の問題に関与するようになってから不思議と四葉のクローバーを見つける機会が増えた。散歩道で何個も四葉のクローバーを見つけると、自分の幸運を暗示してくれているような気になり勇気をもらった。それをいいように解釈して、「きっと私の思う通りにうまくいく」と信じていたのである。根拠のない自信は、プラシーボ効果が立証するように、とても有効ではあるが、そうならない時もある。むしろ物事をフラットに考えることを邪魔することすらある。
ただ、四葉のクローバーの応援がなければ、私はとっくに心折れてギブアップしていたのは間違いない。

もし、神様が両親のために奮闘する私を応援してくれていたとすれば、「なぜ、もっと早く助けてくれなかったのだろう」かと思う時がある。応援してもらえていなかったのであろうか・・・。
融資が下りるという願いを叶えてもらえないなら、なぜ、もっと早く限界状態に追い込んで、傷を浅くしてくれなかったのだろうか・・・。なぜ、諦めざるを得ないぎりぎりのところでちょっとした救いの手を差し伸べてくださったのだろうか・・・。

その答えを神様が教えてくれるわけもないのに、答えの出ない問答を自分の中で永遠と繰り返す日々を何年も過ごしていたような気がする・・・・。
このことについては、今は自分なりの解がある。それは、またの別の回でお伝えすることにしよう。
                                つづく


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