
手指日本語
日本語対応手話は肩身が狭く、使いたい理由を伝えてもなかなか理解が得られない。
ならばいっそそこから手話という文字を取り外してしまった方が平和じゃないかと考えた。
「日本語ジェスチャー」とか「見る日本語」なんてどうだろう。これなら反感も薄れるかも。
通っていた手話サークルでは、それはろうの方には通じない「手指日本語」だと叱られたけど、傷つけ合わずに済むのならその名でもいいと思った。
日本語に合わせた対応手話は、手指の形は同じでも手話という言語ではないしNM表現もない。
私はNM表現ができない。誰にも苦手なものはある。
地域の手話サークルは私ともう一人を除き、みな聴者だった。
にもかかわらず毎回コテンパンに日本語対応手話を否定され続け、それでもしばらく我慢して通ったものの、あまりのストレスに最後は蕁麻疹にバセドウ眼症を発症してしまったというトラウマがある。
片方はまぶたごと目が盛り上がり、もう片方は目の下まで膨れたままの左右不均等。あっという間におよそ自分の顔とは思えないシロモノになってしまったショックたるや。
元々甲状腺低下症はあったものの、医師には急激なストレスによる発症と診断されてサークルを辞めた。なぜもっと早く辞めなかったのだろう。毎日消えてしまいたいと声をあげて泣いた。
つまりここで言いたいことは、
日本手話や聾文化を軽んじてるわけでは決してないこと。当たり前だけど。
また言語だろうが身振り手振りだろうが、それを必要と思い使うのは個人の自由であって、誰にも責める権利はないということだ。
いまはもう異なる文化を認め合って助け合う時代になったはずだし。