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いつでもやめられる
眩しいくらい光に溢れた舞台の上
そのとき私は確かに音楽とひとつになった
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出産をしてから10ヶ月経ったころ、声楽のレッスンに再び通うようになった。
踏ん張れない足腰、衰えたうたう筋肉、枯渇しているエネルギー。歌曲1曲うたうだけでへろへろになった私は、出産前の身体とのあまりの違いに愕然とした。
やめるタイミングなんていくらでもくる。
進学、卒業、就職、結婚、出産、介護、離婚…
そこでどれだけ続けられるかよ。
大学を卒業して、音楽の関係ない仕事についた友人はたくさんいる。
関係のある職業で言ったら学校の先生になったり、楽器店で講師をしたり、オペラ団体に所属したり、音楽界の最前線で活躍している人もいるが、極少数だ。
私は就活をしなかった。
こんなことを言ったら顰蹙を買うかもしれないが、ただただうたっていたかった。
親から望まれた教師の道も選ばなかった。
地元の音楽界のしがらみの中でもうたっていける気はしなかった。
どうにか東京で生きていかなくては。
そうしてアルバイト生活が始まった。
絶対にやめてやるもんか。
やめたら負けだ。負けるもんか。
親に認めてもらわなきゃ、親戚を黙らせる実績を、馬鹿にしたやつらみんな見返してやる。
とにかく必死だった。
それでも、卒業してから初めていったレッスンは嬉しくてたまらなかった。
試験のためでも、卒業するためでも、誰のためでもない。自分で選んで今うたっている。それがたまらなく嬉しかった。
なぜ私はうたっているんだろう。
ピアノと出会った日。
声楽を選び取った日。
音を奏でること、うたをうたうということは
何なんだろう。
本当はいつやめたっていいんだ。明日だって、今日だって、今すぐにだって。
でも、好きだから。
うたいたい。
音楽を通してだれかに幸せを届けたい。
その幸せが波紋のように広がって世界をおおえればいい。
うたで世界平和。
そのためにはまず自分が幸せであること。
大それたことを言ってうたうことへの理由をつけてきたけど、本当のところは家族と私が笑顔でいれればいいのかもしれない。
子どもを生んでからは、この子のためだけにうたえればそれでいい、とも思うようになった。うたうことで戦っていた私もどこかへいってしまった。
本当はいつやめたっていいんだ。明日だって、今日だって、今すぐにだって。
そんな考えがふっとよぎるときは思い出す出来事がある。
重たい木の扉が音もなく開き、薄暗い舞台袖から眩しい舞台の上に歩いてゆく。ピアノの音が冷たい空気に溶けて響く。
一声発したとたん、音楽が降りてきた。
いつもはうたえなかったフレーズも、美しく出せなかった音も、驚くほどすらすらと喉から出てくる。
なんだ、こうやってうたえばよかったのか。
こうやって発音すればよかったのか。
ここはこんな風にうたうことをお望みですね?
いいでしょういいでしょう。
あなたが望むままに、あなたが望む方へ、私はついていきましょう。
私はあなたの下僕ですから。
空から光の柱が降りてきて、音楽が私の身体を通って出ていった。
私はただの通り道。音楽のMuseはそこに確かに存在した。
卒業して一年目に出演した門下コンサート。
あるオペラアリアがどんなに練習してもうたえず、一度も納得のできる演奏ができずに迎えた本番。
不安しかなかった舞台の上で、私は奇跡を体感した。
勝手に身体が反応し、口から流れ出す音楽は練習中幾度も思い描いたそれそのものだった。ときには理想を飛び越えて、さらに素晴らしい音楽を私に教えてくれた。
そのとき私は音楽とひとつになり、音楽そのものであり、光であり、宇宙になった。
ベッリーニ作曲『夢遊病の娘』より
“Ah! non credea mirarti~Ah! non giunge uman pensiero”
奇跡の曲を今一度うたった。産後、復帰の舞台の上で。
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後にも先にも、とは言いたくないけれど、まだこの一回しかMuseには出会えていない。
私はまた会える日を夢見て、うたい続けているのかもしれない。
やめるタイミングなんていくらでもくる。
進学、卒業、就職、結婚、出産、介護、離婚…
そこでどれだけ続けられるかよ。
師匠の言葉はこう続く。
どうやったって、歌えなくなる日は来るんだからね。
その日まで私はうたい続ける。
私はあなたの下僕ですから。
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