見出し画像

ヒトがヒトを好きになる:定型のない世界・小説『ヒカリ文集』

男女の間の恋愛劇、あるいは男女の恋愛しか世の中に存在しないような視点で描かれた小説は、いま存在し得るのか? 男しか登場しない、男同士の関係のみ描かれた小説(たとえば安堂ホセ『ジャクソンひとり』)はあるけど。

『ヒカリ文集』という不思議なタイトルの小説を読みました(松浦理英子著・2022年)。6人の男女が、ヒカリという名の女性とぞれぞれ恋愛感情を含む関係をもつというストーリーですが、どれも実を結びません(あ!ネタバレ?)。いや、でもそこはこの小説のキモじゃないし、ほぼ冒頭を読めば想像がつくことかなと思います。全員が大学時代にスタートした劇団の団員。

これを読んでわたしがまず思ったのは、一般的な世の中では、人間は自分でものごとを考えたり決めたりしていると思っているけれど、実はすでにある仕組み(定型)に自分を合わせているだけなのかなということ。この小説では、その反対のことが起きていて、ヒトの心というのは、もっと不定形で不安定でいかようにも変化するもの、というのが真実では? そんな風なことを思いました。

すでにある仕組みというのは、たとえば女の場合「適齢期」と呼ばれるものがある(あった)とか、人は結婚したり子をもつものだとか、男は女に惹かれるはずだとか(その逆も)、親兄弟は大切にすべきだとか、結婚式では無理してでも世間並みの金額の祝儀を包むものだとか、大学を卒業したら会社に入るものだとか、そういったこと、普通「仕組み」とは言われてないかもしれませんけど、一種の仕組みじゃないかと、つまり目の前にある常識の箱(定型)です。

これに従わない場合を考えると、何か理由というか言い訳が必要になります。いや言い訳なんてそもそも存在しないから。でも言い訳なしだと、変人と言われてしまうことも。上にあげた例でいうと、わたしは大学で知り合った友人から結婚式に招待されて、祝儀というものを一応用意していきましたが、たぶん世間並みに要求されている額(相場)の十分の一くらいじゃなかったかと思います。3万円とすれば3千円。

これ、マナー違反らしいし、まあ変人のすることですよね。そうであっても経済的に余裕がないときに、3万円は無理でした。でもぜひ来てほしいと言われたから行ったし、知り合って1年くらいでしたが頼まれてスピーチもしました。3万円払えないなら行けないと言って、断るべきだったんでしょうかね? この場合。マナーに沿っていうと、それも考慮に入れるべきことのようです(生成AI 他の回答)。

いつの時代からこういう「きまり」があったのか知りませんが、人を大勢、式場に招いて式をやる場合のシステムの一つ、ということもできそうです。会場費や飲食代を来客から徴収して、かかる費用の収支を合わせるといった。合理的なのか非合理的なのか、よくわかりませんが。

話が『ヒカリ文集』から大きく外れてしまいましたが、言いたかったのは、男女・男男・女女・??などの関係も、また恋愛と友情の境界も、こういうものだという世の中の定型をなんとなく人々は受け入れている、それで納得してしまっているのでは、ということ。男女が長く関係を持てば「恋愛」、男男・女女が親密になれば「同性愛」というラベルが貼られる。

この小説の中心となっているヒカリは、人間なんだけどもちろん、ちょっとロボットっぽい、あるいは AI みたいな感じで、著者の松浦理英子さんに言わせると「心を使わない人」(優しいけれども心がない人、あるいは心がないのにとても優しい人)。そういうキャラクターの女性に、男女6人がそれぞれ(時期をずらして)強く惹かれ、各自「ヒカリ論」を展開したり、人間「ヒカリ」について意見を交換したり、互いの経験を打ち明けたりします。

ここで疑問が一つ浮かびます。

女が女に強く惹かれる(興味が湧いた、という未分化な段階)、男が男に魅力を感じぜひとも近づきになりたい(未目的な段階)というのは、誰にとってもあるものなのか。恋人になりたいとかじゃなくて。ヒトがヒトに惹かれるのはセックスとかパートナーシップ以外の理由でもたくさんあるはず。そう思います。

えっ、経験ないですか? わたしはあります。子ども時代をいれてあると思う。だって男にしか(女にしか)惹かれないって、おかしいじゃないですか。ヒトがヒトを好きになる、話してみたい、近づきたい、性別に関わらず、どう考えても普通です。

そもそも人は自分が「男」である、とか「女」である、といった意識をどれくらい意識的に持っているものなのか。あるいはさほど持っていないのか。それによってもヒト(他者)を見るときの感覚が変わってくるかもしれません。

他人のことはわからないので自分について書くと、わたし自身は自分が男か女かをあまり意識しないできました。女であることを否定している、ということでもなく、男だったらなあと憧れることもなく、女でよかった、もないです。これに関してさほど関心がないというのが正直なところ。

だからヒトと関わるとき、相手が女か男かはある意味「結果」でしかなく、面白いと思った人、話してみたいと思った人、可愛いなと思った人、の性別は結果であり、たとえば「男」の中から誰か、と思って選んでいるわけじゃない。

こちらがそんな風だと、まわりの人にもそれが伝わるのか、中高生くらいのときから社会人になった後まで、男子からこだわりのない(向こうもあまりこちらが女だと意識してない)声がけがよくありました。男子的な話題もしてくるし、複数の男子と一緒に行動したり、会社で単独にランチに誘われたり、、、別にこちらを女子と思ってのことじゃない、ちょっと気の合う「たまたま女子」という感じです。女子であることがあまり「障害」になっていない付き合いが結構ありました。「その服似合ってますね、いい感じ」みたいなことも、平気で(セクハラじゃなくて、同性相手に言うみたいに)言われることもしばしば。

自分をどのような性であると意識するか、しないか、は個人差がかなりあるように思います。いまは30代以下の人なら、さほど意識しない人がいても不思議じゃないです。小説やコミックの中の男女の描かれ方を見ても、そう思います。逆に過剰に意識する人もあるか、とは思いますが。

そういえば、最近の欧米のバレエ団では、男女同じクラスでレッスンしているところがYouTubeなどで見られます。昔は男子クラス、女子クラスと別れてるのが普通でした。男子も女子もレオタードにタイツといったからだの線がはっきり出る格好で、一室の中で激しく動き、汗をかきと肉体的な活動が至近距離で行なわれるから、でしょうか。

日本では今も、プロのバレエ団であっても男女別クラスかもしれません。アマチュアバレエ団も、そして「大人のためのバレエ教室」や、お稽古ごとレベルの教室でも、男女同クラスはおそらくないでしょう。男女合同レッスンがあるとすれば、プロのバレエ団の舞台稽古前くらいでしょうか。

男女の違い、特徴、それに対する意識の多くは、からだ(からだつき)から生まれます。でもアスリートと同じように、ダンサーは肉体は自分のものであると同時に、社会に公開されているものでもあるので、個人的なこだわり(わたしは女であるなど)は案外薄いと思います。

ただ社会的な仕組みの中で、バレエのレッスン場において、裸に近い格好の男女が至近距離で、同一空間を共有することに抵抗感がある(あった)のは事実。

このように自分の性に対する意識(性自認)と、関係を持つ相手がどちらの性かを意識するかどうか、は関係あるかもしれません。たとえば自分が女性であることを強く意識する人は、相手が男性か女性かで意識や行動が変わるといった。

最近わたしは、ここのところ親しくしている友人から、自分はノンバイナリーであり、トランス男性だ、と聞かされました。ああ、そうなのか。それがわたしの感想でした。だからといって何が変わるわけでもありません。その人の個性(personality)が変わるわけでもなく、影響は何もありません。一つ変えたのは、CCメールで複数の人とやり取りするとき、その人のことを「he」「his」「him」と書くようになりました。それだけのことです。


話がまた『ヒカリ文集』からそれてしまいました。が、この小説の面白さやユニークさを説明するのは簡単ではなく、こんな関係なさそうな雑多なエピソードを書き、まわりをグルグルしています。言いたいことに行き着けるか不安。。。

ところで『ヒカリ文集』に関する書評や読者のレビューでは、ヒカリという女性の特異性に注目しているものが多く、そこがわたしの感じたこととギャップがありました。わたしはむしろ、ヒカリと関係をもった6人の男女、それぞれのヒカリとの関係の受け止め方に、小説としての面白さやユニークさを感じました。

この小説の構造を説明すると、次のようになっています。
まず冒頭に「序に代えて」という劇団員男性(俳優)の文章があります。そこで語られるのは、この文集がなぜ編まれることになったのか、の経緯(いきさつ)です。この小説全体が、この劇団員6名による作文集ということなのです。

次に劇団主宰者であった男性(序文で、ヒカリを探しに行ったとされる旅先で横死、と説明されている)による、生前に書かれた脚本が続きます。題材は6人を含む劇団員の(同窓会的な)過去のパーティでの出来事を再現したもので、脚本は未完。実はこの未完の脚本を完成させるというのが、そもそもの始まりでした。が、脚本の続きを書くのは誰にとっても難しいということで、代案として自由形式でみんなが文章を書いて寄せ集める、ということになりました。

「いっそみんなで書くのがいいかな? それぞれのヒカリの思い出を。無理に戯曲の続きにしなくてもいいかも知れない。戯曲形式である必要はなく、全体の統一性なんてどうでもよくて、バランスも気にしない方針で」
(劇団員の一人、久代の発言)

松浦理英子著『ヒカリ文集』より

元になる脚本にヒカリは登場せず、実際のパーティにも来ていません。その時点でヒカリはみんなの前から姿を消していて音信不通状態。2年前のフェイスブックに、本人のものと思われる投稿があって、それはアジアのどこかに滞在しているようだった、が、友達リクエストしても返信はなし、という話が披露されます。

ちなみにこの戯曲の章からが本編で、劇団員それぞれの名前が章タイトルになっています。

目次
序に代えて  鷹野 裕
破月悠高 hazuki yukou
鷹野 裕 takano hiroshi
飛方雪実 hikata yukimi
小滝朝奈 kotaki asana
真岡久代 maoka hisayo
秋谷優也 akitani yuya
結びに代えて 鷹野 裕

松浦理英子著『ヒカリ文集』より


6人の元劇団員の文章は、体験および内容が違うだけでなく、書式もバラバラで、書くことに慣れている者から、苦手だとする者までそれぞれです。
冒頭の文だけいくつか引用すると:

飛方雪実
ライターという仕事柄売るための文章はふだんから書き慣れているのに、依頼主も媒体も読者も気にしないで自由に書こうとしたら全く調子が出ないのには軽くとまどう。
小滝朝奈
あたしの迷走しまくりででたらめばかりだった若きへっぽこ女優時代は、3分の2はドブ泥、残り3分の1が黄金といったところだけど、黄金の輝きの中心にいるヒカリだけではなく、破月さんや久代さんや鷹野さんや雪実など劇団NTRの主要メンバーも、いつもピカピカに光って見えた。
真岡久代
亡き破月悠高は私の夫だったが、悠高がヒカリに首ったけになった頃はまだ、悠高と私の間には結婚はおろかつき合いだす兆しすらなかった。悠高と私は芝居仲間であり気楽な友人同士だった。
秋谷優也
最初に、私の力不足によりこの手記を書き上げるのがたいへん遅くなったことを、四人の共著者の方々にお詫びします。子供の頃から作文が苦手とはいえ、引き受けたからにはすみやかに取りかかり、こつこつと書き進めるべきでした。

松浦理英子著『ヒカリ文集』より

ちなみに鷹野裕の章は、「序に代えて」と共に、全文が「無料版『ヒカリ文集』抜粋 特別エッセイ付き」(Kindle他)で読めるようになっています。特別エッセイは著者が2022年に「群像」に寄せたもの。このような無料版は初めてだったので、ちょっとありがたかったです。Kindleのサンプル版では「序に代えて」が読めるくらいで終わってしまうので。わたしはこの無料版を読んだ上で本を買いました。
*無料版で1章全文を読めるようにするという試み、電子書籍ならではで、とてもいいです。誰のアイディアなのか(著者?)。Kindle以外でもDMM、U-NEXTなど広く公開されています。


4人の登場人物の一文を引用しただけでは、この小説の印象はわからないとは思います。でも破月悠高の章の脚本(戯曲)といい、違う人物が書いたという設定の書式の違う文章を並べて小説とする、というアイディアは小説の形式として面白いと思いました。最初の戯曲部分が、おそらく関係者6人を俯瞰的に紹介する役目を果たしているのでは。
「連作短編集」と紹介している人がいましたが、そう読んでしまうとあまり面白くない。長編小説としての仕掛けだと思います。

違う人間が書いた文章の集積によって、一人の中心的人物を描写する。その内容は中心人物であるヒカリについてというより(もちろんそれも書いていますが)、むしろ自分についてあーでもないこーでもないと書いているように見えました。

ヒカリという存在は、登場人物6人の男女にとって、自らを映す鏡みたいなものなのか。一見受け身な態度で人に接し、困っていたり悲しんでいたりする人に近づき、どこまでも優しくするヒカリ。でも心を使ってないから、受け答えや親切のすべてが嘘くさく感じられる(と関係をもった6人はそう書く)。そして相手の気持ちとは関係なく、自分のタイミングで、この辺でと、つきあいを終わりにしようとするのがヒカリ。
ただ6人の誰ひとり、関係を終えたあとも、ヒカリに対して悪い感情を持っていない、むしろ良いイメージを持ち続けているという不思議。

ヒカリはロボットか、あるいは人を映す鏡か、と書きましたが、別の言葉でヒカリを表した人がいます。ボランティア=自分から進んで社会活動などに無償で参加する人。

「そうか、ボランティア的なことをライフワークにすれば? 一人の人を愛せないんだったら大勢の人を同時に愛すればいい」
(ヒカリへの言葉:秋谷優也の章)

松浦理英子著『ヒカリ文集』より

ヒトがヒトを好きになる、そこにはいつも理屈では解けない、不思議な作用のようなものが働いているように思います。小さな子どもが「ぼく、XXくんが好きなんだ〜」と目を輝かせて言うのを聞いて、小さく感動したことがあります。素朴で無邪気で計算のない心の動きを感じたからでしょうか。
定型のない心の考察は、不完全ながらここまで。


いいなと思ったら応援しよう!