見出し画像

[エストニアの小説] #9 ロキとマルー (全10回)

#1から読む #8を読む

 朝になってニペルナーティは筏を川に戻すと、ロープで木に縛りつけた。そしてロキに今晩ここを発つことになる、と告げる。
 「充分ここで過ごしたからね」 にっこり笑って言う。「神様は知ってる、わたしのユダヤの導師がどう思うかをね。他の若者たちは何年も筏で渡っていったけど、わたしは時間を無駄にして、姿を現していない。もし警察がわたしを探しにきたら? ないとは言えない」
 ロキが悲しい気持ちになると、ニペルナーティはロキの頭をなで、なだめるように言った。
 「悲しまないで、ロキ。またすぐに来るからね。心配しなくていいんだよ。きみは今は豊かになった。小屋は修理できたし、雌牛は納屋にいる。タンスには新しい服だってあるだろう。幸せな気持ちになれるはずだ、きみのニペルナーティを待てるだろう。あー、もしきみの父さんが年とってなかったら、今日、一緒に旅立てるんだけどね!」

 旅に出る前に、ニペルナーティはあちこち走りまわって、あれやこれやの用事をした。
 ニペルナーティは森に出かけて、川をくねくねとさまよい、目の前に現れるあらゆるものを見たいと思う。この若者はハバハンネスのところにさえ寄って、そこで働く人たちにさよならを言う。マルーはニペルナーティが出かけていくのを捉えて、ロキの小屋に足を踏み入れ、二人きりになると、叱るような口調でこう言う。
 「なんてあんたはバカなの、ロキ。あんたを気の毒に思うよ。あんたはあいつに恋をしてるんだろ? で、あいつがただ遊んでるだけってことがわかってない。いいや、いいや、答えなくていい。あたしが筏乗りたちの話しやおべっかを知らないとでも? あんたのしたいことが、あたしにわからないとでも? 見てごらん、夕方になってクディシームがうとうとして、ニペルナーティが出ていくと、あんたは筏に向かって走りだす、あいつに身を投げて一緒に行こうってね。あんたが考えてることだよ」
 「ちがう、ちがうってば」 ロキが目に涙をためて声をあげる。
 「うそをつくんじゃない」 マルーが苛立たしげに言う。「そうじゃなきゃ、なんであの筏乗りは、日が暮れてから出ていくんだ? それともあたしが何も知らないとでも? あたしもあいつらの媚びへつらいに負けたことがあった。だけどどんなときも、こんな風に終わったよ。ブラックリバーの岸辺につれて行かれて、後で迎えにくると言われるんだ。で、1日待ち、2日待ち、でも誰も迎えになど来ない、最初っから迎えに来るなんて話はなかったんだ。で、あんたは泥にまみれた葉っぱみたいになる、風が吹いても舞うことがない。そもそも筏乗りは女をどこに連れていこうとするか。男には家もなければ、愛する人を連れていく場所もないんだ」

 ロキは泣きつづけ、マルーは話をつづける。
 「ニペルナーティはくだらないやつなんだって」 マルーは自信ありげに言う。「あいつもただの筏乗り、1日か2日、この辺りをうろつくだけで、永遠にどこかに消えていく。本当なら戻ってくるって約束するはずだろ、なのになぜ約束しようとしない? こんな風にやってれば、いざこざや涙なしで済ませられるからだよ。だから分別をもちな、ロキ。何か望んだり、計画をもったりしないことだよ。傷つくだけだ。自分の父親のことを考えろって、あんたの恥に耐えられるほど強くないからね」

 そしてマルーは怒りを込めて、後ろ手にドアをピシャリと閉め小屋を出ていく。

 ニペルナーティが入ってきて、びっくりする。ロキが泣いている。
 「ロキ、あいつらがきみに何をした? わたしのことをいかさま師呼ばわりして、ロキの希望を取り上げたんだな。それできみはもうわたしのことを信じてない、何を言おうと、何を約束してもなのかい?」
 ニペルナーティはロキの涙をぬぐって、隣りにすわり声を荒げた。
 「ダメだ! いま決まった。きみはわたしと一緒に旅をする。それ以外ない。1日じゃない、1時間でもない、きみなしでわたしが旅をしたいと思うかい? 何も持っていなくても、この手を見てごらん、ロキ。この手があれば、人生を渡っていける。あー、わたしがどれほど働きたいか、小さなロキが元気なのを見たいか、一瞬の間も顔から笑顔が消えないようにしたいか。小さなロキが一人ここに、森にとどまるのを、どうやって想像できるだろう。待って、待って、カバの木の切り口から樹液が滴り落ちるみたいに涙を溜めて。あり得ないこと、犯罪だ、神が望むのは違うことだ」

 ニペルナーティは声をやわらげると、熱に浮かされたようにささやいた。ロキをひざの上に抱き上げ、優しくなでて抱きしめた。
 「急ぐんだ! 荷物をまとめて。もう時間を無駄にできない。真夜中がきたら、筏のところに来るんだ。少ししたら、父さんには手紙を出せばいい。怒らないよう頼むんだ。わたしたちは幸せになって、すぐにまた戻ってくる。いまある人と会う必要があって、ちょっとした旅に出るだけ。それで父さんが手紙を受け取ったら、父さんも笑って、喜んで跳びまわるさ。若い子を見てごらん、若い子たちをね。いつも忙しく走りまわってるだろ。きみはわたしと来るんだ、いいね?」

 ロキは赤い目を向けると、なんとか笑おうとする。
 「いや、今答えなくていい。きみはまだ逃げようとしてる。まだこの筏乗りを信じたくないんだ!」 ニペルナーティは我が意を得たように声をあげた。「きみの目はもう笑いたがってる。でもその口が歪んだままでそうさせてくれない。きみはニペルナーティがきみをだますと本気で思ってるのかい?」
 ニペルナーティは跳びあがり、部屋をぐるりとまわると、またロキの元に走ってきた。
 「なんでわたしを信じてくれない?」 ニペルナーティは悲しげに声をあげた。「どうやったらきみの疑いを晴らすことができるんだ。マルーはきみに何か言った、それは嫉妬からだ。それで可愛いロキは慰めようもなくなってしまった」
 「ん、ちょっと待って」 ニペルナーティは急に思い出しように、ポケットの中を探った。「ほら、このナイフを取って。ニペルナーティが嘘をつかないと、これが証明する。ここに小さな鏡がある。素敵な革が使われているのを見てごらん。このコルク抜きも、それからわたしのノートも取って。とてもいい詩がたくさん書いてある。子どもの頃にいろんな本の中から選んで集めたんだ。わたしにとってそのどれもが愛おしい。あー、神様、わたしがロキを愛してることを、大事にしたいという想いを証明するものがもうない、これしかないんだ」

 ニペルナーティはポケットをかき回した。興奮気味で、悲しそうにも見えた。と、何か思いついて、ニペルナーティの顔に笑顔が戻った。
 「あーっ!」  ニペルナーティは陽気な声をあげた。「わたしは結局のところ、そんなに貧しくはないよ! 自分の誠実さの証として、ロキにあげるものを見つけた。わたしのツィターをあげよう、ロキ。わたしの美しいツィターを取って。地獄の軍隊がわたしの行く道を塞ごうとも、ツィターのためにわたしは戻る。ツィターを持たないニペルナーティは何者だ? 魂のない木と同じだ。おいで、ロキ、筏からツィターはもう持ってきてあるんだ。持ってきて、ロキに渡そうとね、そうすればロキはもうわたしを疑ったりしない!」

'The Raftsman' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku

#10を読む


いいなと思ったら応援しよう!