[エストニアの小説] 第7話 #10 幕切れ(結婚とは)(全10回・火金更新)
「そうなの、いかにもあの人らしいわね」 女性がため息をついた。「あの人はいつだって森や通りをうろつきまわってる。でも今、地面は雪におおわれているから、少しはおとなしくなってるんじゃないかと。あの人は雪が降ってくると、人間にもどって従順になるからね」
「奥さん、あんたは遠くから来たんで?」 シーモン・バーが尋ね、近寄った。
「街から来たのよ」 女性が答えた。「あー、なんてこと、すごく疲れて足が麻痺してる。この1週間、ニペルナーティを探しまわってたんだから。足取りをつかむまで、農場から農場、小さな町から町をめぐってたわけなのよ。シルバステの居酒屋でこの人と出会わなかったら、ここを通り過ぎてたでしょうね」
女性はヤーノスにうなずくと、笑顔を見せた。
「そんなに熱心に探すとは、あんたはあの男に重要な用事でも?」 シーモン・バーが言った。
「重要な用事?」 女性がその言葉を繰り返して、また咳でもするように笑った。「あなたが何者なのか、言ってくれてもいいんじゃない?」 マレットが陰気な声で攻めるように言った。
「わたしはトーマス・ニペルナーティの妻よ」 女性が答えた。「インリート・ニペルナーティよ」
「奥さんなの?」 マレットが椅子の背をつかんで声をあげた。「あなたはトーマス・ニペルナーティの奥さん?」
「そのとおり」 女性は静かに言った。「トーマス・ニペルナーティの正式な妻よ、16年間連れ添ってるの。そのことをあなたに言わなかった? ああ、そうなの、あの人はいつもそう。夏の旅にひとたび出れば、労働者だったり、農夫だったり、仕立て屋に煙突掃除人、何にでもなる。そして本当の仕事や家族のことを言わない。小枝を飛びまわる鳥みたいなもんよ。それがあの人、わたしはそのやり方や変人ぶりに慣れている。春になるとわたしや友だちの元を離れて、どこかに行ってしまう、探しても無駄」
「だから仕事を始めるときに俺は言ったんだ」とヤーノス・ローグ。「あんたは労働者には向かない。俺らはシルバステで丸太を積んだ。あいつが丸太に突進していったとき、すぐにこう言った。あんたは向いてない、とな。ペイプシで網を引いてたんだろ、あるいはどこだか知らんところでな。どうしてかというと、いいかな、奥さん、丸太っていうのはこうやって積むもんなんだ。まず一つ、二つ、三つと選んで、それをよく見て、手で重さを計る。適切なものが見つかったら、それを船の端に乗せて、荷船に押し込むんだ。だがあいつはやり方を知らなかった、いつも丸太は船から落ちてしまった」
「あら、わたしはそういうことは、何も知らないわね」と女性。「ずっと街暮らしで、田舎にはまったく慣れてないの」
「じゃあ、幸せはもうすぐそこね!」 マレットが突然、大声で言うとくるりと向きを変え、泣きながら奥の部屋に走りこんだ。
女性は立ち上がり、びっくりして、シーモン・バーとヤーノス・ローグの方を見た。
「いったいどうしたの? わたしの夫が何かここでしたのかしら? あー、あの人ならやりかねない。夢みたいなことばかり言って、あの人の言葉は嘘ばかり。あの人の頭で駆けめぐるあれこれはどこまでも続く、良識はないも同じ。自分で自分を大変な苦境に追い詰めて、それで不幸になって悲しくなる。わたしがあの女の子になにか、してやれることはあるかしら?」
女性はマレットのところに行こうとして、ドアに近づいた。しかしマレットが中から大声でこう言った。「やめて、やめて、この人を来させないで、あたしのところに来ないで! いやな人よ、大嫌いなんだから、その夫もね、心の底から大嫌い!」
マレットは叫び声を、そして笑い声をあげながら、枕や毛布を部屋に投げちらした。
「幸せはもうすぐそこ!」 泣き笑いしながら、マレットは声をあげている。「そうよ、幸せはもうすぐそこなんだって!」 そう繰り返し、大声をあげている。
女はびっくりして引き下がり、ベンチにすわった。
「どうしたらいいのか、わからない」 そう力なく言った。「湿布と熱いお湯がいいんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ」 ヤーノス・ローグがもののわかった風に言った。「シーモン・バーの娘マレットは、わたしの未来の嫁なんです。気まぐれな子で、こういうことはよく起きます。でもわたしがちょっと機嫌をとれば、すぐ直ります。また笑顔を見せて、不機嫌は消えます。この娘はそういう子なんです」
ヤーノス・ローグは奥の部屋に入っていき、ドアを閉めた。長いこと、部屋の中からヤーノスのささやくような、父親が娘に話すような声と、マレットのすすり泣きが聞こえた。部屋の外にいる女とマレットの父親は、じっと耳を傾けていた。そしてヤーノスの声が普通の話し声になり、明るく強い調子になって、マレットのすすり泣きが収まったのをみて、二人はほっと安堵した。
「神様の思し召しだ」 厳粛な面持ちで父親のシーモン・バーは言い、テーブルにパイプをポイと置いて、両手を合わせた。「結局、いい方にことは収まった。この強靭な男が俺の息子になるのをずっと待っていた。これですべてはうまくいく。ヤーノス・ローグはいい働き手だ、ちょっとした蓄えもある。春になれば、漁の季節がやって来る。俺の見立てに間違いなければ、春にはいい漁ができるはずだ。あー、そうなれば、またパンと健康と幸せがやってくる」
「祈りましょう、祈りましょう」 女が心動かされてそう言い、指を目に当てた。「神に祈ろう、そのとおりだ」 シーモン・バーが同意し、テーブルからパイプを取り上げて、震える手で火をつけた。
突然、入り口が開いて、ニペルナーティが入ってきた。そこで棒立ちになり、言葉を失っていた。
「ああ、なんてこと」 女が声をあげて嬉しそうにニペルナーティの方に駆け寄った。「なんて汚い格好なの!」 そう言うとニペルナーティを少し押しやって、前から後ろからその姿を検証した。そして金切り声をあげ、大笑いした。
「なんて素敵な格好をしてるの! あらまあ、靴から10本の指がネズミさんみたいに突き出てる。それに年取ったわね、びっくりよ、こめかみに白髪があるじゃないの。この夏はいろいろあったのね。なのにあなたは、そのことを何も言ったりはしないんでしょうね」
「マレットはどこ?」 ニペルナーティが力なくシーモン・バーに訊いた。「もうわたしの妻に会ったのかな?」
「あの女の子をどうしてやったらいいのかしら」 女がニペルナーティに訊いた。「あなたが結婚してるって聞いたら、部屋に走り込んで泣き始めたの。あの子と何かあったの? あの子はあなたに恋でもしてるの? 未来の花婿がここにいてよかった、その人が行って話したら、すぐに泣きやんだからね。シルバステで出会って、その人がわたしをここに連れてきてくれたの」
「そうか」 ニペルナーティは、額を手でこするとマレットのいる部屋に向かったが、そこで振り返った。
「あなた、わかってるのかしら」 女が言った。「あなたを探して、ずっとあちこち旅してまわったのよ。で、そこでどんな話を聞かされたことか。ヴィカヴェレでは、あなたは農場主だって言っていたし、ある牧師の妻は、あなたといて恋に落ちそうになったって。その人の父親の農場で農夫になって働いて、真珠や金を近くの川で探してたって」
「わかった、もういい」 ニペルナーティがさえぎった。「そんなことは聞きたくない。夏はわたしのものだ、わかってるだろ」
女の顔が曇り、口を閉ざした。しかしすぐに笑顔を取り戻した。ニペルナーティはベンチに腰を下ろし、妻のハンドバッグを取り上げた。
「さあ、これを」 ニペルナーティはそう言うと、お札を数枚この家の主人に手渡した。「宿代じゃない、ちょっとした贈り物だ。長い冬がやって来る、そうしたら食料が足りなくなって、ひもじい日が来るかもしれない」
「いや、だめだだめだ」 主人が拒んだ。「あんたはもう充分、助けてくれた。あんたが丸太積みで稼いだ金は、みんな貰ってる。それ以上もういらないし、それ以上は必要もない。すべてはうまくいくだろう、神様のおかげだ、結婚式もすぐできる。俺は大丈夫、ヤーノスがここに移り住んでくる、そうすれば貧乏や惨めさはなくなる」
「それは確かなのかい?」 ニペルナーティが疑わしそうに訊いた。
「そうだ、確かだ」と主人。「確かだ。俺の見立てが当たってれば、すべてうまくいくはずだ」 ニペルナーティは主人の手に、お札をねじ込むとこう言った。「じゃあマレットの結婚式のプレゼントとして、何か買えばいい」
すると突然、奥の部屋のドアが開いて、マレットが現れた。泣いたせいで赤くなった目で、ニペルナーティを見ておずおずとこう言った。
「あんたはなんて人なの。こんな人とは思わなかった、夢の中でさえね」
「こういう男だ、無価値なやつだ」 悲しげな声でニペルナーティ。「いまきみはトーマス・ニペルナーティの知らない面を見ている。人生で男と出会ったことのないような気難しい女といる男だ。そして今、この男に苦しみと心の痛みが降りかかっている。かわいいマレット、きみにはこんな男はまったくふさわしくない」
「ふさわしくない!?」 マレットが言葉尻をとった。
「そうだ」 ニペルナーティがため息まじりに言う。「だけどきみは今、カテリーナ・イェーを目にした、そうだよね。この女は強靭な手をもっていて、わたしのからだを輪っかで縛る、樽に輪っかをはめるみたいにね。そして荷を引かせるためにムチをつかう」
「それは違う」 妻のインリートが遮った。
「わかった、わかった」 ニペルナーティがひとりごとを言うように、ため息まじりに言った。「結婚がきみに輪をはめた、結婚というものがなんであれ、この結婚はそうだ。わたしがまたここに戻ってきたら、かわいいマレット、きみも輪っかをはめられているんだろうね」
「もう、ここを出た方がよくない? 列車に間に合わなくなってしまうのよ」 妻のインリートが気ぜわしげに言った。
「きみは黙って」とニペルナーティ。「わたしの夏はまだ少し残っている、それはわたしのものだ。岸辺には黒々した土が少し残ってる、まだ雪にすべてが覆われたわけじゃない。地面がすべて雪に覆われたときだけ、わたしはきみのものだ」
インリートが窓辺に走っていき、嬉しそうに声をあげた。「ほら、見てよ、雪が降ってきた。すぐに地面は雪で覆われるから」
「たしかに」 ニペルナーティがため息をつく。「雪だ」
マレットがドアのところで歌うように言った。「ほら見て、ある朝、船乗りが太鼓と戦いの警笛で目覚めた。船乗りが目を開けると、シバの女王が列車に乗って近づいてくるのを見た」
「シバの女王だって?」 ニペルナーティが憂うつな面持ちで言った。「いいかい、マレット、わたしがこの世で生きているかぎり、シバの女王を待ち続けるつもりだ。たとえ老人になったとしても、彼女を求めつづける」
ニペルナーティはマレットに近づいて訊いた。「きみの結婚式は確かにあるんだね、間違いないんだね?」
「あると思う」 マレットが目をあげずに答えた。
「じゃあ、結婚祝いには何がほしい?」 ニペルナーティが訊くとマレットは少し考えてから、ニペルナーティに近づいて、耳元で何かささやいた。
「なんだって、なんだって」 ニペルナーティが驚いて声をあげた。「わたしのツィターを結婚祝いに欲しいって? これはわたしにとって最高に価値あるもの。きみにあげるものとして、これ以上のものは考えつかない」
ニペルナーティはツィターを取り上げ、愛おしそうにそれを見て、マレットに手渡した。そして声を高めて言った。「よい人生を、マレット」
そして妻の方に向くとこう言った。「さあ、出発しよう、そうじゃないと、ここにわたしは一生いることになりそうだ。誰もわたしをここから引き離すことができなくなる」
そしてニペルナーティとインリートは、逃げるようにして小屋を出ていった。マレットが入り口まで走って姿を捉えようとしたが、ニペルナーティは夕闇の中、あっという間に姿を消した。
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*トーマス・ニペルナーティの物語はこの第7話で終了です。第1話から通しで読みたい方は、以下の「もくじ」ページからご覧ください。
ここまで読んでいただいた方々に、心からのありがとうの言葉を送ります。
'The Queen of Sheba' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)