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[エストニアの小説] #1 ロキとマルー (全10回・火金更新)         

「筏乗り」は短編連作小説の第1話です。全7話すべてにトーマス・ニペルナーティという風来坊が登場し、それぞれの村で騒動を巻き起こします。

アウグス・ガイリ(1891 - 1960)
エストニアを代表する後期ロマン主義の作家。美しさと醜さという相反する存在に焦点を置いて作品を書いた。リガ(現在のラトビアの首都)でジャーナリストとなった後、従軍記者を務める。19歳で作家デビュー。
'The Raftsman' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation ©: Kazue Daikoku

ロキ

 朝の光が窓の隙間から差し込むと、ロキはパッと起き上がり、肩にショールを巻いて外に走り出た。夜の間に、ブラックリバーは冷たい氷の覆いを押しのけて土手を超えはるか向こうまで流れ出し、谷間を溢れる水で満たしながら川幅を広げていた。大きな氷の塊が流れの中で白い小舟のように舞っていた。氷は浮き沈みしながら、ぶつかり合い、幾千もの破片になって砕けた。

 あー、ロキはひとり声をあげた。これが理由でこの娘はゆうべ眠れなかったのだ、そのために悪夢を見、夜の間じゅう奇妙な夢に追われまくったのだ。このせいだった! ロキは拳を両目に強く押し当て、砥石で研ぐように腫れた目をこすった。赤くなった凍える足を雪から持ち上げ、そして次にもう片方の足を上げた。

 あらゆる溝、小道、窪みはゴボゴボ音をたてる流れに満たされ、小さな虫のように跳ねまわり、くねくねと動き、陽気に斜面を下っていく。そして枯れ葉や小枝、苔を散らしたり集めたりしながら一つの流れとなり、その背にすべてを乗せて、大きな川の流れへ、祭りの舞踏会場へと進んでいく。キラキラと煌めく雪はもろく、風や太陽が当たればすぐに崩れ落ち、そこで生まれた氷の結晶が、あごひげから水が滴るように落下する。

 森は真冬の冷たさに揺すられて目を覚まし、その一方、トウヒのてっぺんは緑をどんどん濃くしていく。松の木の大枝は輝く水滴に覆われ、鳥たちがチュンチュンと鳴く。ナナカマドの小枝は冷たく紅く、秋の実をぶら下げたままだ。山の斜面では雪の吹き溜まりが払い落とされる。茶色いクランベリー、コケモモの凍った茎は、真っ白な羊の毛皮の下から頭を持ち上げているみたいだ。空気は青く瑞々しく、太陽の光が溢れている。

 突然ロキはハッとして、猟犬のように鼻面を上に向け、叫び声をあげようとするみたいに口を大きく開けた。松の木の高いところに据えられた巣箱のまわりで、ムクドリたちがくるくると飛び回り、ピーピー鳴いている。このワクワクする発見を自分だけの胸に納められそうもなかった。ロキは走り出すと声をあげた。「とうさん、とうさん。ムクドリがきてるよ」 白髪まじりの森の人シルベル・クディシームが、部屋の隅でヨロヨロと立ち上がった。咳払いをし、あくびをすると、ゆっくりとした調子でこう言った。「また大きな洪水がくるんだろうよ。春は突然やって来るが、森はまだ雪だらけだ」

 ここの森は、とロキは心の中で腹をたてながらこう言う。「どこまでも終わりがない」 どこもかしこも、目が届くかぎり、頭を揺らすトウヒ、松の林、湿原と沼ばかり。オオカミだって一冬の間にこの終わりのない森を歩きつくすことはできまい。くすんで陰気に揺れる木々が、はるか海まで続いている。

 夏の真っ盛りの干ばつの間は、ブラックリバーは干上がり、くねくねしたヤマカガシみたいな、ごく小さな流れになる。木々はロウソクのように突っ立ち、黄色い樹脂のしずくを落とすのみ。乾いた苔は茶色に焼け焦げ、草はしおれ、力果てた枝は下を向き、鳥たちさえ歌うのをやめて死んだように枝の上でまどろんでいる。夕方になると、木々の間を暑さのせいで疲れ切った妖精が足をひきずり、あるいは夜のはじまりには、置いてきぼりをくった小鬼がギラリと目を光らせ、尻尾をたなびかせて家路へと急ぐ。猟師か旅人が迷い込むことがあったとしても、ごくごく稀だ。ここには人もいなければ、家もないからだ。

マルー

 唯一、山の斜面にあるのは、ハバハンネスの農場だ。しかしハバハンネス家は誇り高く、お高くとまっている。ロキに話しかけるときはいつも、ご馳走の乗った食卓から犬に食べかすを放り投げるように、口の端から一言こぼすだけ。そしてこそこそと歩きまわっては悪態をつく。この男が足を踏み入れるところ、草は伸びるのをやめ、苔でさえ頭を出そうとしない。欲深く、短気な男だった。神様がこの男を氷(ひょう)や飢餓で罰するときには、ハバハンネスは拳を刃物のように天に突き上げ、脅しをかける。あごひげの房が鎌(かま)のように突き出て、小さな目は怒りと拒絶に満ち溢れる。

 しかし娘のマルーはよく町まで出て行くし、その目は黒く生き生きとしている。マルーは小生意気で誇り高く、仕事もせず、何事も一生懸命にやるということがない。しかしよそ者の放浪者が農場に現れれば、マルーは放心状態になり、手のひらを返したように農場は親切心に満ちあふれ、陽気な場所になる。そしてハバハンネスは放浪者の手をとり、畑や牧草地を連れてまわり、自分には力があり豊かであることを見せようとする。そして馬車に積んだ干し草の山のように放浪者を率いて駆け出し、自慢気にあれやこれや吹聴してまわる。

 そしてやっと家に戻れば、マルーが鳥のようにさえずって、たんすや食器棚などの引き出しを開けてみせる。放浪者が出ていくときは、ハバハンネスは長いこと手を握って別れを告げる。マルーも出口までやって来て、去っていく人の後ろ姿を悲しげに見送り、すがるように「またすぐに戻ってきてね」と声をかける。

 かわいそうなロキのところには誰が会いに来る? お客があっても、ロキには見せるものなどなく、自慢できるものもない。小屋の隅には引き出しのついた収納箪笥があるものの、中はネズミの巣だらけ。何も入っていない。持てる富といえば、自分の身のまわりのものだけ。ザルのように穴だらけの使い古したボロ布。そのためロキは、人を恐れていた。誰かがふらりとやって来たら、ロキは走っていって木の陰に隠れる。妖精が猟師を見つめるようにおびえた目で、そこから見知らぬ人を覗き見る。

 ロキには燃えたつ二つの目と喉をころがす喜びの声しかない。森の中でこの娘がヒューと合図を送れば、鳥たちが矢のようにやって来て、谷間は楽しげに木霊で応える。ロキは胸がチクチクするような喜びを待ち焦がれている。特に春になって、氷に閉じ込められていた水が流れ出て、黒い川が大声を上げながら海に向かうときには。すると筏乗りの男の子たちが、歌をうたい、声をあげながらやって来る。森は彼らの楽しげな笑い声に満たされる。

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