視線
他人の視線が怖い。
ある一定の人にとってこの言葉は、まさしく耐え難い痛みそのものを表すかのような効果を持つ。
そして、大抵の人間がこの発言に対して「自意識過剰だ」とか「みんな何にも思ってないよ」なんていう言葉を投げかけることも、その一定の人にとってはお決まりのパターンである。
ああ、生きづらいなぁ。
私は辟易とする。例えそれが慰めの言葉であり、事実であるということも、不特定多数の「あなた」に言われる前に私は知っている。
知っているんだよ。
視線、という響きはどうしてこんなにも痛いのだろう。
視る線、と表されるその言葉は私にとって刺線であり私戦であり死線だ。(これが音声ならば何を言っているのか全く理解できない、ダブルミーニングならぬフォース?ミーニングである)
刺す線。私の線。死の線。
あなたは何も悪くない。
なぜなら刺しているのは私自身なんだから。
もちろん、悪意や負の感情を含んだ視線もある。
自己批判精神、自己否定、自己犠牲、劣等感、ネガティブな感情
でも大体は勘違いで、自意識過剰で、それを私自身が一番わかっているのにその線を私自身が歪めている。曲解とでも言おうか。最終的に恐怖を自分に与えているのは自分だという全く笑えないこの状況。
一種の強迫観念なのかもしれない。
でもずっと怖いのだ。小学生の頃から他人から向けられる視線が。
私という浅慮で馬鹿で阿呆で救いようのない人間を品定めするような、軽蔑するような、その視線が。
あるいはそのように視線を歪めてしまう私自身が。
相手の目が見れない。
私は、このまま視線の恐怖に怯えて生きていくのだろうか。もしかしたらその目の中にあるかもしれない慈愛や優しさにも、私は気付けないまま、一生他人から目を逸らして生きていくのだろうか。
痛くて、辛い。それは今も変わらない。
でも私を信じてくれる優しい目に私が負の解釈を与えないように、せめて私は胸を張って生きるべきなのだろう。
自分から目を逸らさない。自分の、自分に対する視線に耐える。目下それが、私の目標である。