チンパンジー「マツコ」の半生③
マツコはアフリカから連れてこられ、不遇な時代があったが、数十年かけて群れでのびのびと暮らすようになる。連載3回目は、飼育係の大栗靖代さんにリョウマの出産と、飼育を通じて伝えたいことを聞いた。「私たちは動物たちの幸せを勝手にあきらめるのではなく、追求していかないといけない」と力を込めた。
マツコの出産に驚きと喜び
Q マツコは出産を経験するのですね。
A 2008年にかみね動物園にやって来て3年間、交尾は一度も確認できませんでした。マツコは繁殖できる年齢ですが、もう30歳を過ぎて若くはないですし(野生下の寿命は数十年と言われる)、おすとのコミュニケーションもうまくありませんでした。
それが、2011年に大きなできごとがありました。一緒に暮らしていた「ヨウ」(めす)が、「ゴウ」という女の子を出産したのです。マツコは、小さい赤ちゃんを間近で見て、繁殖の「スイッチ」が入ったようです。2012年、マツコが33歳の時にリーダー「ゴヒチ」との交尾を確認し、人用の妊娠検査薬に尿を浸すと、妊娠していることがわかりました。「まさかマツコが」と驚き、みんなで喜びました。
生まれた日のリョウマ(かみね動物園提供)
人工保育、群れに戻れないリスクも
Q 無事に出産できましたか。
A 当時のマツコは34歳。チンパンジーの初産では国内最高齢でした。しかし、ゴウの生まれたときの体重が1820グラムだったのに、「リョウマ」(マツコが産んだ赤ちゃん)はその半分の950グラムほどしかない低出生体重児でした。マツコはリョウマを抱いていましたが、徐々にどうして良いのか分からなくなり、落ち着きがなくなりました。おっぱいを飲ませられず、リョウマはずっと泣いたままです。私たちは「このままではだめかもしれない」と考え、マツコからリョウマを取り上げました。
人工保育で育てられた(かみね動物園提供)
Q 人工保育ですね。
A 難しい選択でした。チンパンジーを人の手で育てると、群れに戻りにくくなくなり、孤独な人生を送る可能性は否定できません。マツコも人に育てられて、寂しい時間を過ごしました。人工保育をすることにより、マツコが手に入れようとしている親子の「幸せ」を壊してしまうかもしれません。でも、ベテランの獣医師に聞いても、チンパンジーは赤ちゃんが1000グラムを切ると、子育て経験が豊富なお母さんですら育てるのが難しいといいます。私たちはマツコが産んでくれた赤ちゃんを、なんとか元気に成長させてあげたいと思い、人工保育を選びました。
マツコはやさしく迎え入れた
Q 人が育てるリスクがあるのですね。
A 親子を一度離すと、親が自分の子どもとわからなくなり、子育てを拒否することがあります。それが、マツコは格子越しにリョウマと会わせると、やさしく手を出して「触らせて」という仕草をしたのです。出産から10か月後、リョウマを返す日がやってきました。マツコはすぐリョウマを抱きしめました。リョウマもびっくりした様子でしたが、マツコは姿勢を低くして、こわくないよと、おなかを見せたり手を出したりして、やさしく抱いていました。
マツコは母親に育ててもらった記憶がかすかにでもあったのでしょうか。もともとの性格が、すごくやさしい子だったとも考えられます。マツコはその後、一度も交尾が確認されていません。リョウマは奇跡的に生まれた子なのかもしれません。
人工保育されたリョウマとマツコが初めて一緒になった日(かみね動物園提供)
動物たちの幸せをあきらめてはいけない
Q マツコの存在を通じて伝えたいことは。
A 動物園にいる動物にも、いろんな人生があるということです。マツコは1人で日本にやってきてイルカに乗った。ショーに出られなくなると、各地を転々としました。人の都合で翻弄されましたが、あきらめずに新しい人生を切り開いてきたのです。私たちは動物たちの幸せを勝手にあきらめるのではなく、追求していかないといけない。チンパンジーが絶滅の心配をされているのも、人が原因です。マツコ、そして野生のチンパンジーたちの幸せを、お客さんといっしょに追求していきたいです。
大栗靖代さん
Q マツコは特に波乱万丈な人生を送っているチンパンジーなのですか。
A イルカのショーをしていたのはめずらしいですが、複雑な人生を送っているチンパンジーは少なくありません。特にマツコの世代と、それより上の年齢のチンパンジーです。
例えば、かみね動物園では、マツコの夫の「ゴヒチ」(推定41歳)、一番年齢の高い「ヨウ」(推定47歳)も、もともとは野生のチンパンジーです。アフリカで捕獲された後、ゴヒチは東京大学で医学実験に使われていました。研究番号が「57番」だったのでゴヒチです。ヨウは幼稚園や児童館をめぐってショーをしていたことから、ヨウと呼ばれます。それぞれの動物園が、こうしたチンパンジーたちが人生をやり直せるように努力しています。動物園に動物たちがいることは当たり前じゃないんだよ、と知ってもらえるとうれしいです。
横になりながらごはんを食べるのがマツコスタイル(かみね動物園提供)
消防ホースフィーダーからごはんを食べるゴヒチ(かみね動物園提供)
「チンパンジー 「マツコ」の半生」を読んでいただいて、ありがとうございました! マツコの記事を書くにあたって、「おらゑもん」さん(@weiss_zoo)に貴重な情報をいただきました。かみね動物園のチンパンジー飼育については、片野ゆかさんの 『動物翻訳家』でも詳しく紹介されています。今回の記事でも一部参考にさせていただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。