![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/90388098/rectangle_large_type_2_3c99c538ce99cc06d9c7938f4abb3093.jpeg?width=1200)
詩53 暮れるまへ
暮れるまへ
さう思ふまで思ひをつのらせ
思ふことよりやはり思ひ
その思ひを
口づから思ふまま思へ
こころを悩ましく渡るので
思ひを身と身よりその身へおのづから在る
こころの許へ
思ふといふこゑのまま聴く気のしてゐる
寄せては満ち
引くとなく離れ
離れると又その身の動きによつてこゑになり
こゑになればうたふやうで
日の明るさにも夜の樹の陰の濃さにも
似るらしひ思ひの深さが
あるひは身を含めこころの許へ
暮らしの内のこゑの発つ
思ふままの思へとしてさざなむらしひ
日の暮れ方に言葉を思へ詩を書ひてゐる
/小倉信夫
(2022年10月30日のツイートより引用)
この詩を書いたあと、ちょっと大事なことを書いたな、と感じました。何を書いたかと言うと、特別何かを書いたという思いもなかったのですが、しかしどこか振り返ったときに、この詩に書かれていることが大事なことであるという気がしました。
いま読み返してみて、それがどういう大事なことだったのか、何ともわからない気がしますが、しかし書いたすぐあとにはその感じがあって、少し興奮していたように思います。その興奮は夜まで続いて、その次の日にも若干残り、そしてそのあとは今までと同じく書けなくなったので、やはり大事なことを書いたのかも知れません。書けなくなると心理的に不安定になることがあり、しかしその振れ幅が小さいところを見ると、まだここで書いた大事なことから、私の生活の中にある詩の川の流れは続いているように思います。
それはいつだかのツイートに表した西行の短歌によって、やはり連続しているように思えます。
また散歩をしてきました。少し長めに。これからメルカリに少し本を出品して、ご飯の支度などします。散歩中、やはり西行の歌が頭にありました。
こころなき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ
です。この上の句の美しさに、この頃魅了されています。
#歩く寄付PEACEWALK
(2022年10月28日のツイートより引用)
この短歌を引用したのは、詩を書く二日前ですが、このときから心の中に連続する言葉の感覚があり、今もそれはある気がします。それがどんな心の流れか、今ひとつうまく言えませんが、その流れが霧のように消えたときにはまた激しく混乱するのだろうと思うと、その川のようなものを見失わないようにしたいなぁ、と思いもします。思いもするのですが、それはどうにもならない力で近づいたり離れたりするので、私はその霧のすぐ側にある見えるともない川のほとりを、どこへ行くかもわからないまま、ひたすら辿っているという気もします。
しかしどうも、少し違うような予感もあって、それは例年なら感受性の減退が始まる、この秋から冬への変わり目に、その心の川を霧の中から見つけ始めたということで、これはあまりないことです。もしかしたらこの川の隣をずっと歩きつつ、また違う川の岸辺に佇んでいたりする日々が、ここから始まるのかも知れないという気がします。
そんな予感のある詩だったので、大事なことを書いた気がしたのかも知れませんが、こうして書いている間にも、少しずつまた霧が厚くなってきているので、やはり私には分からない道行きの内にいるのだという思いでいます。