朝のコーヒー

「コーヒーばかり飲むなよ」
 彼氏にそう言われ、僕は顔を上げる。愛しの恋人さんは、凛々しい眉を寄せ、僕の手元を見ていた。小奇麗な白いカップには、とろりとした黒黒しい液体が注がれている。香り立つそれは僕の好物であった。
 起きたてから怒らないでよ、と、揶揄うように僕は笑う。朝六時。小鳥の囀りが聞こえる、心地好い時間帯だ。明るい光の差し込むリビングで、僕はシンプルな作りの椅子に座り、ゆると首を傾げながら恋人を見てる。彼は椅子とセットのテーブルに手を突き、ムッと唇を歪めていた。
「貴方がまあたコーヒーばかり飲んでいるから悪いんだろ。朝も昼も夜もそれじゃあないか。昨日の寝る前だってそうだった!」
「好物だからねぇ。こればっかりは仕方がない」
「仕方がなくない!」
 そう怒る彼の、色の濃い、さっぱりとした短髪に、寝癖が付いているのが可愛らしい。ふふ、と笑えば彼は更に顔を顰める。彼は寝起きというのに既に着替えていて、明るいシャツと黒のスキニーに身を包んでいた。そのラフな格好がどうにも好いものに見えてしまうのだから、惚れた弱味というのは恐ろしい。対して僕はゆるやかな白の寝間着に適当なロングカーディガンを合わせていて、朝のコーヒーでやっと目を覚ましたところだった。
「見える、見えるぞ俺には。いつかの未来、コーヒーの飲み過ぎでついに体を壊し、医者に泣き付く貴方の姿が!」
「随分なことを言うものじゃないよ。大丈夫、僕は丈夫だからね。それに、仮にそうなったとしても、君は世話を焼いてくれるのだろう?」
 知っている。ふふん、と笑ってコーヒーを懲りずに一口。うん、美味しい。僕は色素の薄い髪を柔らかく揺らして、恋人に微笑む。健康的な肌の白さが眩しい彼は、ジッと僕を睨んで、そしてハアとひとつ溜息を吐いた。子供に呆れる大人のようであった。
「そんなこと言って、俺が居なくなったらどうするつもりだ? 俺だってずっと生き続けるわけじゃあないんだ。先に死んじまうかもしれない。俺はね、一人になった貴方のことを心配して——」
 どうして、と呟く。言葉を止めた彼は、瞠目して僕を見る。どうして、と僕は言う。「どうしてそんな酷いことを言うんだ」
 もし、いつかの未来、彼が居なくなったら。という仮定は、最悪の想定であった。考えたくもない。胸が締め付けられる。落ち着く為にまたコーヒーを口に含んで、僕は悲しい悲しいの顔をした。
「居なくなんてならないでよ」
 黒い水面を眺めながらの言葉は、息混じりに空気へ溶けた。
 愛しの恋人はガシガシと頭を掻き、またひとつ溜息を吐いた。呆れ混じりのそれに僕は肩を縮ませる。テーブルを避けて僕の直ぐそばまでやってきた彼は、サラサラとした僕の髪を、雑に優しく撫でた。
「そんな顔するなよ」
「……どんな顔?」
「んー。キスしたくなる顔」
 そう言って、彼は僕の手からカップを奪い、口付けをした。コーヒーの苦味にウエッと顔を顰め、しかし僕の目を見てふはっと笑う。好きだな、とぽつり思う。
「……そんな顔なら、幾らでもしようかな」
「やめろよ。酷いことするぞ」
「ええー。どうしよう。君からの酷いことなら嬉しくなってしまうから」
「お前な……」
 癖のように呆れた顔をした彼は、思い付いた表情でカップを持ち上げた。
「それじゃあ、好物を禁止するって酷いことも、いいよな?」
「んなっ、それはそれ、これはこれだろう。酷いな君は。酷い男だ」
「別に全くの禁止ってわけじゃあない。もう少し控えろって話だ」
 言い聞かせるような声で言って、彼は結構な強さのデコピンをした。これが結構な痛さを頭に響かせ、僕は思わず額を両手で押さえてしまう。
「うぅ、酷いじゃないか。酷い男だ」
「はいはい。俺からすれば、貴方の方が余程酷い男だけどな」
「僕はただ好きに生きているだけなのに……」
「それでいいから、せめて長生きしてくれよ」
 染みるように言って、彼はキッチンへカップを持っていってしまった。反省を、するべきだろうか。額を撫でながら、僕は彼の後ろ姿を眺める。キッチンで何やらしている姿が、ただそれだけが、どうにも、幸福の象徴のように思われ、じんわりと体内を暖かくさせる。嗚呼、これが幸せか。と、滲むように思った。
「ほら、どうせ飲むなら水飲め、水」
 キッチンから戻ってきた彼は透明色のコップを二つ持っていて、中には天然水が入っていた。
「牛乳とかもいいって聞くよ」
「俺が嫌いだからダメ」
「ふふ、我儘」
「どっちが」
 軽口を叩きながら、僕はコップを手に取り、水を飲む。美味しかった。
 水が美味しい、と思いながら、僕はまた昼にコーヒーを飲むつもりでいた。心配に顔を歪めて此方を見る彼の瞳を思い出して、ふふ、と笑い声を零した。

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