味覚は正しくない
食べる事が好きだ。
だけど、どう美味しいのか伝えるのが苦手だ。
「これはプラム、キャラメル、あとからスパイシーさも感じますね。りんごとかのフルーティーさではない。」と言い切った飲食のプロの傍ら、わたしは(りんごの果実の、皮に近いところの味がするなあ)と思っていたから、もう何も言えなくなった。
きっとわたしがここで思うままに感想を言えば、全員が「え?そうかな?」と顔を曇らせるだろう。そんなの堪らない。
でも探究心が強めな体質なので、知らない味を確かめて、美味しいや面白いを体感せずにはいられなかった。
メニューを見て迷った時は一番食べたことのなさそうなものを選ぶ。新しい味というのは狭い脳の空間でふんわりと漂うファブリーズのように所在を掴めない。わからない。おいしい。何だろうこれ?
少しでも「正解」の味覚に近付きたくて提供者へどういう意図で作ったのかたずね、なるほど言われてみれば確かにと納得し、あるいは((うそ、全然わかんなかった…ぜんぶ胃の中へ消えちゃったしもう再現できないもったいない…))の感情をヘラヘラとした笑顔でごまかしていた。
だけど美味しいチョコレートに出会って、その世界が立体的に広がっていることに驚き、これはただその時を楽しむだけでは自分の本当に食べたいチョコレートにはたどり着けない、記録して分析しなければ…!と駆り立てられ、はじめは記録用アプリにちょこまかと書いていた。
でも結局は誰かに聞いてほしくなり(この感情はなんなんだろう)、小規模なSNSでこっそり投稿を始めた。
利用者が少ないからか、投稿を見てくれた方々はとても優しく、和やかにわたしの味の感想を楽しんでくれるようになった。自分の好きな味を食べて感想を教えてほしい、と言ってくれる人さえいた。
「え?そうかな?」と曇る顔は見えなかったので、わたしは伸び伸びと味の感想が言えるようになった。
そしてそのうちに、わたし以外の味覚でこれを食べたらどんな味がするのかが気になるようになったので、フォロワーとチョコレートの実食会を開くことにした。
この試みはとてもいい経験になった。
わたしが分析しきれない味をスパッと答えてくれて腑に落ちたり、この味にするための製法や素材の知識を教えてくれたり。食べ方も人それぞれあって、お互い試して面白がった。言われたままに味を感じようとするのと、お互いの感覚を交わして相違を楽しむのとでは雲泥の差がある。
だけど実際、どんな味がしたのか話すのを嫌がる方もいた。
「わたしが言う味が正解ではなくて、人それぞれなんだよ」と話しても、「語彙が足りない」と勇気を持ってはくれなかった。
「いつもみんなと同じ味がしないから自信がない」と公言しているわたしの味覚にさえも、実は萎縮している人がいた。
わたしたちは、それぞれがそれぞれの味覚を持っていることをもっとはっきりと理解するべきだ。
味覚の仕組みとして、酸味苦味甘味旨味などを受容する味蕾がそれぞれにあり、例えばその数によって感じやすさが変わる。そして一度味わった「美味しい」という感動を脳は覚えていて、それに近いものを食べるとその味が再現されることがある。脳は快感を求めてもっと食べたくなるが、食べ過ぎると「もうその栄養は充分に摂った」と判断し、味蕾は閉ざされ、体調の変化なども重なると、とたんに味がわからなくなっていく。(これはゆるふわ受け売り科学的根拠である)
味覚とは、そんな気まぐれで不安定でひとつの解などは存在しないものなのだ。
だから提供者は「これはこんな味で、こういう工夫がなされることによって味わいに変化が起こり、素晴らしい香り立ちが鼻を抜けます」などと言って美味しいを誘導してくれる。
見た目を華やかにしてくれる。
美味しいを味わうために適切な環境すら提供してくれる。
美味しいとは、丁寧に作り上げられた感覚なのだ。提供者の技巧や表現や、お友だちの「これ美味しいから食べてみて」がわたしの口へ運ばれて、今、わたしの心に起こるものである。
やっぱりわたしは、これを「美味しい」と言いたい。
様々なお店が建っては潰れるような激流の資本主義の街では、「美味しい」と言われなければ「美味しくない」ということになってしまうから。
どんなに敷居が高く緊張するようなお店でも、どんなプロフェッショナルな提供者でも、目を見て「美味しかったです」と声を掛ければ綻んでくれるから。
美味しいってこんなに素直なことなのだ。
わたしの味覚はたぶん正解ではない。
だけど誰の味覚も、間違ってはいない。
アートを観るように、温泉に浸かるように、友達にありがとうと言うように、わたしは美味しいと言う。