幸い(さきはひ) 第十章 ⑥
第十章 第六話
南山の問いに西野は両膝に肘をつき、ひたいにすりあわせるように手を合わせて目をつむる。
数秒の沈黙の後、親指を内側に巻き込むようにして合わせた手の中にひと息吐くと、西野は答える。
「桜病とは本来、北川の妻が患った《桜の花粉》が毒となり引き起こされる病です。
昔から植物が多く根付き、共に生きてきた日本人には花粉に耐性があり、直接はかかりません。
しかし、北川の妻はそうではなかった。
北川が調べたところによると、北川の妻の母方の祖は、英国北部の草木も生えない極寒の地にあったようです。
そんな土地柄もあってか、その血は植物の花粉に対する耐性が少なかった」
最初に異変を起こしたのは、北川の義母。
「植物学者でもあった北川の義父は、日本に来日した際、日本古来の桜花の美しさに魅入られ、自宅の庭に、たくさんの桜の木を植えていたそうです。
来日して初めての春が訪れ、満開の桜の下で花見をしようとした最中、義母は突然倒れた。
肢体に浮かび上がる花びらのような斑点に、気管支の不調。
医者さえ原因が分からぬ病に、義母は段々と身体を弱らせ、翌年、桜の散る頃に亡くなった。
数年後には、北川の妻も桜の花咲く頃に倒れた」
その時点ではその病が何かさえ分かっていなかった。
「北川は妻の原因不明の病の正体を探るため、世界各国の文献を読み漁る中で、当時英国で発表されていた花粉が身体に与える影響について記した論文に目を付けたようです。
妻の家系を調べる中で、花粉が妻の体に害を与えているのではないかと疑った。
加えて、妻の実家に大量に植えられていたという桜の木、妻や義母が倒れた状況を考察し、植物の中でも“桜の花粉”が妻の体に対して毒になっているのではないかという推察をしたのです。
そして、毒であれば同じく、毒素から抗体を作り治療する血清療法が応用できるかもしれないと考えた。
そのために南山研究室の馬を借り受け、桜病に対する抗体をもつ抗毒素血清を作ろうとしていたのです」