幸い(さきはひ) 第十章 ⑨
第十章 第九話
南山の顔からその推論を察した西野は肯定するように頷く。
「そうです。北川は私たちが行ったことを知っていて復讐したのです」
それは北川の研究を犠牲にして作られた血清のもう一つの真実。
当時、金を持った多くの貴族が南山研究室に研究費の支援を行っていた。
対価は研究で得られた破傷風の抗毒素血清。
そう。
あの折、北川から奪った馬で作られた血清を得たのは南山たちだけではではない。
残りの多くは出資していた上流階級の人間達に渡されたのだ。
「北川は薬売りに予防薬と偽った病原菌を売る際、一定数を特定の貴族に売ることを指示していました。
それは、あの時作られた血清を受け取った出資者。
売る際も秘密裏にと言われていたようです。
その時点で、薬が正規品でないのは明白。
それでも彼らは買った。
しかし、逆を言えばそれは試されていたのです。
怪しい薬を欲せず、北川の研究を犠牲にして作られた血清で我慢をしておけば、華族達は桜病に罹ることはなかった。
欲をかいたばかりに自ら首を絞めることになったのです」
西野は縛り出すような声で話を続ける。
「北川の日記には娘の血を使うことに苦悩しながらも、妻を奪われた憎しみで心が蝕まれていく自身の心情がせつせつとつづってありました」
日記帳にはところどころ血が付いていた。
「彼は娘からもらってしまった桜病に罹り、血を吐きながらも計画を進めていました。
そうして、桜の花が散り終わった頃、復讐をやり遂げ、壮絶に死んだ。
私はそこでやっと自らが行ってしまった過ちの大きさに気づきました。
結局、私たちが強引に奪った北川の研究は北川の妻の命、回りまわって私たちの妻の命を奪っていったのですから」