幸い(さきはひ) 第十章 ③
第十章 第三話
西野の言葉に南山は眉間《みけん》に深い皺を寄せる。
いきなり告げられた耳に痛い過去の話が、己の疑問にどう繋がるのか分からないという顔。
しかし、黙って西野の話に耳を傾ける。
「当時、教授の奥様と私の妻のお胎《なか》には同じ時期に出産予定の子どもがいました」
|明治末期、新生児の感染症による死亡率が高い中で、南山は桐秋以外の二人の子どもを生まれてまもなく、破傷風により亡くしていた。
その時宿っていたのはそれから長いこと空いて、ようやく新たに授かった命だった。
西野の妻のお胎にいた子どもも、長い結婚生活で念願叶って実った命だった。
だからこそ・・・。
「私たちは宝を守るため、最大限の保険を作っておく必要があった。
その一つが破傷風菌に対する抗毒素血清。
破傷風は破傷風菌の毒素によって引き起こされる身体のこわばりから、やがては死に至る病。
多くの乳児の死因になっている病気でもありました。
そしてその治療薬は私たちがまさに研究しているものだった。
ゆえに私たちは研究を利用して、自らの子どもに対する抗毒素血清を生成することにしたのです」
西野は勤めて冷静であるように話すが、額には汗が浮かぶ。
話はだんだんと核心に近づいていく。
「私たちがそのような研究を行っている一方、北川は他の病気の研究を独自に行っていました。
その最中、南山研究室が確保していた検体馬《けんたいば》の一体を使わせてほしいと言ってきた」
その時点では、破傷風の抗毒素血清を作るための検体馬は充分に確保できていた。
「教授はそれをお認めになった。
しかしその直後、重大な事故が起こった。
破傷風の抗体を作るためと使用していた馬が、動物特有の伝染病《でんせんびょう》で全滅したのです。
もちろん、私たちが血清を抽出するはずだった馬も死んでいましいた。
唯一生き残っていたのは別の場所に移していた北川の馬だけ」
出産予定日がせまり、他の馬の手配ができない中、
彼らがしたこと。